丹那神社に参詣す

Blueforce2008-06-15

先週のカーライフリハビリで、一時落ちていたペースがすっかり戻ってしまったようで、先日土日で十国峠に行くのも難しくなり・・・なんて書いたのもあっさり前言撤回、正午出発で十国峠へwwww
といっても、いつもなら箱根新道で上がっていくところを、今回はまず十国峠直行なら椿ラインを上がって行った方がいいかな?と思い、真鶴道路をさらに海沿いで走って行くことにする。日曜日、午後も14時を回れば真鶴道路の上り線は車でびっしり、石橋まで何km続いているやら・・・
結局、十国峠直撃なら熱海峠に上がった方が早いので、椿では上がらずさらに熱海まで進む。ガソリン高いっちゅ〜に、毎週熱海まで来るんかい・・・というわけで、削れるところは削るべく、今日は珍しく熱海ビーチラインには乗らず国道で日本のモナコ、熱海にやって来た。

ちょっと寄り道。さて、ここはどこ?

来宮駅を過ぎ、熱海峠に上る急坂にとりかかる登り口、春の梅の季節には観光客で賑わう熱海の梅園の入口の交差点を右折し、(もちろん)梅園には入らず100mほど進むと「丹那神社」という表示が見えてくる。そこの一段と低くなっている道を右折すると、数台が停められるこの神社の駐車場があり、さらに進んだところがここ。

東京と大阪(路線の区間は正確には神戸だが)を結び建設された東海道線中最大の難所、箱根越えを解消するために1918(大正7)年4月1日に起工、世紀の大工事とうたわれながら極めて悪質の地質のため難工事を極め、度重なる事故の末になんと工期16年を数え、1937(昭和9)年12月1日に開通した丹那トンネル。青函、そして海外でも英仏海峡トンネルと続く日本のトンネル掘削技術発展の礎となったトンネルの、67名を数える殉職者を祀る神社が、熱海側坑口の真上に設けられている。

トンネルのポータルは、現代のような味気ないコンクリート平面とは違い重厚な石積みで、堂々たる複線断面の形状も相まって、昭和初期を代表する産業遺産(遺産とは失礼な話でバリバリの現役だが)として抜群の存在感を放つ。ゴッタルド(ゲッシェネン口に限る)と並んで、私の好きなトンネルの筆頭に挙げられる。
頂点中央部の裏側には、このように67名の氏名を刻んだ殉職碑がある。時代が時代だけに、朝鮮人の名も多い。

実際の神社のご神体は、道を挟んで反対側の斜面に設けられている。神社と言っても、もちろん?立派な本堂があるわけではなく、小ぶりな祠があるだけ、その性格上賽銭箱も設けられていない。今となっては訪れる者もおらず、ひっそりと静まり返っているが、まだ新丹那しか体験したことのない分遣隊長とともに、今ある日本の繁栄の礎を築くために犠牲になった方々に手を合わせる。

祠の右隣には、1921(大正10)年4月1日に発生した、熱海坑口300m地点での大崩壊、16名が死亡した最初の大事故の際、崩落地点の奥に取り残され後に救出された17名の命を救ったとされる「救命石」が安置されている。この事故に関しては、トンネル完成直前の1933(昭和8)年12月に一般向けの工事誌として鉄道省熱海建設事務所より出版された「丹那トンネルの話」*1に第十三章「世間の同情を蒐めた最初の大事故」として詳しい解説があり、79ページには出版当時に撮影されたこの場所に安置された当初の石の写真があるが、この由来を記した看板にも下に「丹那トンネルの話」より、と明記されている。

今の時代に、いやそうでなくても、トンネルに関心のある人間などほんの一握りだし、トンネルにストーリーがあるなんて思いもよらず、たとえ知ったところでそれがどうした、という話。もちろん、それを嘆くつもりはない。トンネルすべてに、いやトンネルだけに留まらず、すべてのプロダクトには関わった人の数だけのストーリーがあり、このように大工事ともなれば生と死のドラマがある。う〜ん懐かしのプロXの世界・・・それにすべて共感するのは無理な注文だし、誰もがそういったことに関心があるわけでもない。
すでに、係累の人も訪れることはないと思われる、忘れ去られたトンネルの上の小さな慰霊碑。だが、67人の人が命を投げ出して掘り抜いてたトンネルは、70年余の時を越えて今なお現役にある。通勤に、通学に毎日このトンネルを利用する人々が、まったく意識せず―そう空気のように、そして東海道の物流の一端を担う貨物列車が淡々と行き交い、積まれたコンテナに収められていた品物を、世紀の大工事の末に完成したトンネルを通って届けられたことなど知る由もない人々(当たり前だw)が手にする、その何もない日常が最大の供養なのだと・・・そして、願わくば時々、これを読んだ方々が熱海を訪れた時に話の種にでも訪れてくれれば、不肖Bluefoceこれに過ぎたる幸せはありません。
このトンネル真上の道は、さらに先(写真で左側)に続いて40〜50mほどで行き止まりとなる。そこは、在来線丹那トンネルに並行して戦前の弾丸列車計画に沿って起工されながら、同計画の中止によって長い間放擲され、戦後東海道新幹線用として転用された新丹那トンネルの坑口にあたる。保線用係員の出入口になっているようで、数台の車両駐車スペースと、厳重に封鎖された扉があり、その横はすぐに坑口が大きな口を開け、数分おきに新幹線電車が行き来*2する様を間近で見られる珍しいポイントなのだが、昨今東海道新幹線・・・っつ〜かJR東海の線路っ端でウロウロするのは若干ヤバいので、こちらに近づくのはあまりお勧めしません。車をUターンさせたらさっさと退散退散。
この後は順当に熱海峠を上がり、十国峠で1時間ほど散歩した後、さらに元箱根に降りて・・・

天気も悪くなってしまったし、たいがいもう夕方なのだが、芦ノ湖で記念撮影。先週の清里に続いてこっちも負けずにひとけがね〜な、今時の観光地なんてこんなもんか? ちょっと旧街道を散歩してみたが、人は誰もいないし、うっそうとした樹々に光が遮られ真っ暗な道がおっかなくて、早々に引き返して来てしまった。

最近、走行距離レポなどもまったくサボっているが、現在2万3,000kmを超え、名変以来1年3カ月で約2万km走行だから、まあ私にしては若干少ない方か。しかし、何気なくタイヤを見てみたら、いつの間にやらタイヤがつるっつる!! おいおいそんなに減りが早いんかい、しかもこの資金難の時に・・・いよいよ栄光の連合艦隊のようになってきた。毎週箱根まで来てる場合じゃねえよ・・・
しかし、こればかりは命にかかわる問題につき、早急になんとかしなければ。
ここからは御殿場に抜けることにして、仙石原で仕上げの散歩を軽〜くして、夕闇迫る乙女峠を抜ける。そこから、金もねえし(最近こればっか・・・)、どうせ高速乗っても渋滞なんだし、行けるところまで下で行こうと決め、246(と並行する御殿場線沿いの道)をまずは松田に向かって走る。で、立ち寄ったのがここ。

かつて、丹那トンネルが開通する前、東海道線であった御殿場線の東側の登り口、松田から2駅目の山北は、東海道線当時は山越え用の補機を擁する機関庫が所在し、丹那トンネル開通により山間のローカル線に転落した後も本格的な山越え区間に臨む運転上の拠点として、日本最大の巨人機、D52が行き交う大駅であった。ちなみに、昨日のエントリで紹介した、交通博物館の中央大ホールに展示されていた1912年ヘンシェル製のマレー機・9850形は(現在は鉄道博物館に移設のうえ同様に展示されている)、大幹線の勾配区間である、まさにこの後に御殿場線となる国府津―沼津間で使用するために輸入されたものであり、山北に3両、国府津に6両が配置されていたという。時計の針を95年も巻き戻せば、この写真の左側には9850が現役でマレー式の独特なドラフト音をガシュガシュ響かせながら行き交っていたわけだ。
鉄道が「陸の王者」と言われた時代が過ぎ去り、1968(昭和43)年に御殿場線が電化されてからは、山北のようなSLの基地は必要がなくなり、今となってはさびれた田舎の小さな駅に過ぎないが、ちょっと寄ってみたい理由があったのだ。

ずっと以前、のりまきさんに「山北駅前に有名なうまい中華料理屋がある」と聞いたことがあり、気にはなっていたのだが、この界隈を下道で、しかも一般商店が開いているような時間に通ることはまずないので、いつも早朝や真夜中の東名を通りながら下界の景色を見て思いを馳せるだけに終わっていた。ところが、本日は思いがけず246を通り・・・しかし時間はすでに1930を回っている。飲食店なら別に開いていても不思議でもなんでもない時間だが、なにせ山北・・・国道から駅前に通じる旧道に入れば、すでに真っ暗である。こりゃダメだろ・・・まあ、秦野辺りで適当に開いてる店入りゃいいやと思ったら、開いていた。タクシーが数台乗車待ちで停まっているものの、人っこ一人いない駅前広場に、それは暗黒星雲の中で明るい光を放つ恒星のようにひときわ煌々と輝いていた(この表現が決して誇張ではないのは、上掲の写真が雄弁に物語っていると思うw)。その名もなんと「柳麺八(らーめんや)」。

しかし、ここでひとつ大きな問題が・・・当日記で何度か吐露したことがあったが、私実はあまりラーメンが好きではないw そんな人間がその名もズバリ「ラーメン屋」に入って何を食うのかという話だが、もちろん麺メニュー以外にもいろいろと御飯ものもラインナップされているので、ここは迷った挙げ句天津丼を注文。しかし、相変わらず俺の撮った食い物写真は美味そうに見えねぇな〜

一品だけだともったいない(?)ので、固やきそばも注文。こちらはまあ、普通の味だったが、天津丼は卵がふっくらしていて、甘酢のあんもかなりはっきりした味で、美味かった。2品で腹一杯になってお会計は1450円。
遠く東京で噂に聞くほど伝説の中華料理屋ゆえ、構えといい店内といいもっと昭和の香りが色濃く漂うドラマのセットのようなのを思い浮かべていたのだが・・・まあ、ある意味ドラマのセットか!? なんの変哲もない道端のラーメン屋で、店内はカウンターが5席ほど、テープルは3つで12,3人が入れば店内はいっぱいになってしまう。これが・・・伝説の店とな!?
後で聞くところによると、この店はまだ御殿場線東海道線であった時代から駅前に存在していて、当時ぽっぽやさんをはじめ数多くの人々で殷賑を極めたこの街でたいそう繁盛しておったそうじゃ〜(常田富士男調で) 当時は「国鉄」の名前でツケがきいたという、鉄道員のステイタスの高さを伺わせるエピソードも聞いたが、この日記の冒頭で紹介したように山北が丹那トンネルの開通で東海道線の座から転落したのは昭和9年のこと、建物は変わっているにしても、創業70年を超えてるの!? いや、いくらなんでもそれはwwwwというわけで、どうやら山北にD52が行き来していた頃の話であろうと推測。それにしてももう40年も前の話になろうとしているが・・・
腹もゲロ減りで、ようやく見つけた伝説の中華料理屋で、さあ!いただきます!と意気込んだまさにその瞬間、かなりショックなニュースが私にもたらされたのだが、もちろん家を出るときはそんな巡り合わせになるとは想像もしておらず、それもかつての鉄道の要衝、9850形ゆかりのご当地に引き寄せられたゆえのことかと、運命的なものを感じながらの夕食ではありました・・・ま、生きてりゃいろいろあるよ、分遣隊長と駆け回った楽しい休日を糧に、明日からまた頑張って行きましょう。
この後は、結局、オール246でオープン走行を楽しみながら2230帰宅。

*1:1995年に鹿島出版会より復刻出版 少数の頒布につき現在では入手困難

*2:熱海は駅部分が新幹線としてはR3500という比較的急な曲線のために、東海道区間での最高速度270km/hでは走行できず―いわゆる「熱海問題」のひとつ―160km/hで通過して行く 熱海を過ぎてすぐの新丹那トンネル坑口では上下列車ともこの制限速度である160km/h+での通過となり高速の大迫力は味わえない