追悼 宮本勲氏

JASDF Iruma AB in 3.11.1981

航空評論家の宮本勲氏が亡くなったそうだ。
最近はフリーのライターとして、航空・軍事雑誌に主に自衛隊航空関連の記事を精力的に執筆していた氏だが、ちょうど私が航空ファン誌を読み始めた頃、1980年代始めには編集長を数年務めていたこともあり、私にはまだその時の印象が強く、他誌にお名前を見ると結構違和感を感じたものだ。もう20年以上前のことだが、その後編集長は前任の今井今朝春氏に再び戻り、誌面のカラーも若干変わった(あの辺が私がいわゆる業界事情というものに関心を持った初めての経験だったかも)。
編集長時代から自身で自衛隊の現場取材なども多く、その後フリーになってからは自衛隊一本。この辺、当時米軍関連を一手に引き受けていた長久保秀樹氏との棲み分けという事情があるにせよ、本当に陸海空問わずP-3CからF-2まで自衛隊航空研究・評論に活躍された。
実はその長久保氏のことで、以前からここに書こう書こうと思っていた事があって、そうすると自動的に宮本氏のことを思い出すことになり、実は虫の知らせというか、訃報を知った日にも、ふと氏のことが頭に浮かんだのである。いや、これ本当の話。最近は定期購読する雑誌もないし、もともと自衛隊航空には疎いので、記事を読むこともなかったのだが、「今どうしてるのかなあ・・・」と。
航空・軍事雑誌には雇われ編集長で、その後浪人、といっては失礼だがフリーの身となる人が多いように思う。中にはうまくテレビなどの仕事が入って、いい営業している人もいれば、波乱の人生を送っている人もいる。狭い業界、ケンカ別れして別の雑誌を興したり、まあこれは別の趣味誌界にもあることだけど、一体なんで宮本さんは数年だけ務めて、また今井さんに戻ったのだろうとか、半年に1度位思い出すことがあって、その半年に1度の日に亡くなったとの知らせ。思わず「エッ!?」と声を出すほど驚いた。本当かどうかわからないが、原稿の上がりが遅いので自宅に訪ねていった編集者が発見したとき、死後1週間位経っていたという。独身だったのか。さすがに身の上とか人となりまでは存じ上げなかったので、それもショックだった。孤高の航空ジャーナリスト・・・まだ死ぬには早すぎる年齢のはずである。持病でも持っておられたのだろうか。
航空評論家といえば、同じく関川栄一郎氏も亡くなられたそうだ。合掌。御両名、特に宮本さん、私の趣味のキャリアの基礎は、あなたが編集長を務められた頃の航フです。本当に、お世話になりました。そして、安らかにお眠り下さい。
追悼として、数少ない自衛隊航空のPhotoを。私が初めて軍用機を見た1981年の入間航空祭、T-2後期形・シリアル79-5144と、最後の同基地航空祭展示となった総飛のF-86F・シリアル62-7497(私が最初に見た飛んでいる戦闘機がハチロクだった)。後ろにはT-33も見える。ちなみに、これを撮ったのはハーフのオリンパスペン。変色がひどく、ここまでレタッチするのも大変だった(そして最終的にレタッチし切れず)。ヒコーキもカメラも今は昔のカットである。