みちのくフィルム回収大作戦

at Sanriku coast 1990

夏に釧路で忘れたカメラバッグを帯広から取りに戻った話をしたが、もっとスケールの大きく、かつ奇跡的なエピソードをお話ししよう。
1990年のゴールデンウィーク。当時XLR250に乗っていた私は、折から秋田は協和温泉で開催されるヨシムラのファンクラブ組織、「Pops club」のミーティングに参加すべく、最近本隊やこちらに良く出没する悪友と夜の東北道を走っていた。
夜が明ける頃福島飯坂で高速を降りた我々は、悪友の独走により(あのXLRはファイナルが絶対おかしい)朝飯を食いそびれるなどのトラブルがあったものの、昼前にはミーティングが行われる四郎兵エ館に到着、酒飲んで飯食ってバイク談義してその日は一泊。翌日は男鹿半島を一周して秋田市内に泊まり、3日目は抜けるつもりで走っていた田沢湖スーパー林道がかなり奥まで行ったところで崖崩れで通行止めというアクシデントに遭いつつ盛岡に出て、さらに翌日は岩洞湖・早坂高原経由で岩泉に、龍泉洞を見物して三陸海岸に出た。
北山崎、鵜の巣断崖などを見物しながら、島越の所で海岸に降りてきて、道端に停まって一服。ちょうど終わったフィルムを交換して、再び走り出す。本日の宿は本州最北端の大間、このままずっとR45を北上し、およそ250kmほどを走らなければならない。まあ自称耐久王の私にはこれ位は日常茶飯事ではあるが、どうせなら恐山が見たい・・・果たして三沢にも寄らず、到着したのはすっかり日が暮れた頃だった。人っ子一人おらず、何が見られるわけでもない。しかも、大間までの道は「あすなろライン」などと名前はついているものの、灯り一つないダート。どちらもノーマルのXLRで、ライトの灯りは心細いし、何より場所が場所だ。悪友には絶対に俺の前に出るな!並んだ瞬間に蹴り飛ばすからそう思え!と厳命し、それでも冷たいものの走る背中に怯えながらなんとか薬研温泉まで降りてきた。ここからは大畑に、あとは海沿いを大間へと順調にと進むも、やはり到着は2000をとっくに過ぎた、こんな田舎ではすでに夜更けのことであった。
道中公衆電話もなく、連絡を取る手段もなかったので、宿の女主人には不倫旅行だと思われていて「ご自宅にお電話を差し上げるのもどうかと思いまして・・・」なんて言われて3人で大笑い、遅くに飯を出してもらって、慌てて風呂に入った。さて、さっぱりした所で荷物の整理・・・下着を詰め替えたりゴソゴソやっていると、どうも何かが足りないような・・・なんだっけ?ん?フィルムだ!
何度数え直しても、交換した記憶と手元にある撮影済みのフィルムの本数が合わない。やったか〜!しかし、もうどこに落としたかなどわかるはずもない。来た道をずっと下を見ながら戻るか?いや、もう諦めるしかないか・・・ヨシムラの次期ボンネビルプロトタイプなど貴重なカットも沢山あるのに・・・
ガックリ来ながらも、旅は続く。翌日は大間崎を訪れてから仏ヶ浦、超ダートのR338号を驚異的なスピードで走り抜け脇ノ沢からフェリーで蟹田へ、青函トンネル記念館を見学してから小泊へ抜け、金木の斜陽館でお茶を飲んで、弘前に泊まった。
さて、桜祭りで賑わう夜の弘前城周辺を歩きながら、これからのことを考えてみた。ここまで、宿の予約をしたのは大間だけで、実は予定など特に決めていない行き当たりばったりの旅であったが、明日中、あさっての朝までには東京に帰らなければならない。弘前からは東北道に乗れば一本道だ。そのこともあって、最後の宿をここに決めていたのだ。素直に帰るか・・・しかーし!「フィルム取りに行くぞ」
私には確信があったのだ。下北、津軽の両半島を渡り歩く間、執念深くずっと考え続けていた推理が、はっきりとした形をとりつつあった。フィルムは、交換ついでに一服した島越の海岸沿いの道路に、ある!
急遽予定変更、R102を十和田湖へ向かう。ここまで来たのだ、ジタバタしても始まらないし、急いでいってもない時はないだろう。しかし、明るいうちに着かないと見つけだすのは無理だ。計算した時間配分ではあまり遊んでいる余裕はない。
それでもついつい、奥入瀬の美しい風景にバイクを停めて散策などしてしまい、(いつものことだが)最後は駆け足になってくる。悪友も良く文句の一つも言わずについてくるもんだ・・・フィルムは裸で落ちているはずだから、あれから雨が降っていれば浸水してしまっているだろうし、本当に波洗うような海岸沿いなので、ちょっとでも時化たら海水がサッパーンと。スリットの向きによっては感光してしまっているかもしれない。なにより、記憶にある範囲よりも、着いてみたら意外に広かったら・・・念のために、北山崎の展望台に寄って、食堂の人にフィルムの落とし物の届け出がなかったかどうか聞いてみるが、心当たりないとの答え。ますますあの海岸への確証が強くなるが、それに反比例して発見の可能性としてはどんどん落ちて行くことに、イライラは募る。すでに周囲は薄暗くなりかけていた。これで暗くなってしまったら、次は夏にでも来るしかない、あ〜あんなに十和田湖で遊ばなきゃ良かった・・・
記憶にある場所に着いたのは、本当に夕闇の触手がまさにわれわれを掴もうとするその瞬間だった。スタンドをかけるのももどかしく、メットを脱ぎ捨て一帯を探し回る。と・・・あった!あった〜!
奇跡は起こった。700kmの距離を超え、フィルムは我が手の中に再び戻ってきた。こんな・・・こんなことが起こっていいものだろうか。その直後、私と悪友、2台のXLRは三陸海岸の闇に飲み込まれたのである。
さて、ここまで夢中になって走ってきたが、冷静になってみると、今日はこれからどうしたらいい?宮古で泊まるか、それとも・・・宮古の寂れた茶店で夕食を食べながら、とりあえず盛岡に出て考えるか、面倒くさくなったらどっかに泊まろう、天気も今夜から崩れるみたいだし。しかしGWだし、そう簡単に宿見つかるかな・・・再び走り出したが、5月上旬の岩手の山の中は寒い。震えながら1時間、盛岡に出て、駅前でしばし考える。ここまでで、すでに優に普通のツーリングの2日分である。あと500km・・・「決〜めた!このまま帰ろうや」
いや、ホンマにこの友人、良く怒りもせずについてきたもんだと思うが、途中から予報通り雨が降り出し、結局栃木に入るまでずっと雨中走行。途中でキックペダルが外れ、那須高原ではブーツも脱がずにSAの休憩室で死んだように眠り、佐野辺りからは嘘のように快晴となった東北道を、ラストスパート。終わり良ければすべて良し、旅の終わりは五月晴れで、爽快な気分で家まで戻ってきた。最終日、といっても2日・24時間にわたって、睡眠2時間足らずで走り抜けた距離は946kmだった。
さて、次回はこの奇跡の回収に成功したフィルムによる、ヨシムラのボンネビルプロトタイプをご紹介します。