黒き怪鳥 SR-71ブラックバ−ド

SR-71A Blackbird 64-17974

もうすぐ仕事も一段落しそうなので、4月辺りに沖縄行きを真剣に検討したいのだが、それにちなんで昔行った沖縄の思い出話などを・・・
あれは今からウン十年前、私は学校にも行かず連日の夜勤のバイトに忙殺されていた。といっても夜通し働かされるわけではなく、深夜に「居る」ことが仕事というような職種で、ほとんど連夜仲間達と遊んでいたようなものである。今から考えると完全に世の中をナメ切っており、長い年月が経った今でも時効にできないような話もいくつか。そのツケが今に回ってきているかどうかはさておいて、ある晩、仕事場の電話が鳴った。
それは日頃つるんでいる悪友からのもので、なんと今沖縄にいるという。「こっち来ねえか、2日後に、ゴヤっていう交差点で1800に待ってる」即座に「イグイグ」と答えて電話を切ったものの・・・
実は、その時まで私、飛行機に乗ったことがなかったのだ。さすがに戸籍謄本や住民票は要らないのは知っているが、当時の私にとって沖縄は遙か遠い外国のようなもの。それなりに覚悟が要ったはずだが、金には困らない身分だったこともあり(オイオイ・・・炎上すんぞ)、その場のノリで瞬時にOKしてしまった。
2日後。まだ羽田の旧ターミナルで、普段は送迎デッキで写真を撮るだけなのに、初めての飛行機、いったいどんな感覚なのか、どんな景色が見えるのか、想像もつかない。まだギリギリでスカイメイトに入れる年だったので、結局この1回だけだったが入会申し込みをして、初めて乗った飛行機はトライスター。どこかを探せばフライトログのメモも残っているのかも知れないが、今となってはどこにしまったかわからない。とにかく、快晴で暑い日だったことは覚えている。当時のBランから離陸して、ひねるように上昇していった機窓からは、東京の街並みが手に取るように、しかも上昇して刻々と小さくなり、遠くまで見渡せるパノラマが味わえて、これが飛行機というものか!といたく感動したものだった。その後、あれほどの快晴で下界が見渡せる空の旅はなかなか味わえない。
那覇空港に着いて、バスで市街まで、そこからさらに別のバスに乗り換えて、コザ(沖縄)市に向かった。夕方になってもまだ異常に暑く、悪友が泊まってるというホテルに投宿して1800に合わせてコザの中心部、ゴヤ(胡屋)の交差点に赴く。嘉手納空軍基地のゲートにほど近い、当時でも本州ではさすがに見なくなった、日本人が近づのが憚られるような米兵相手の店が並ぶ基地の街である。ヒコーキマニアというわけでもない悪友は、ここを根城に海や動物の写真を撮ってもう数日になるという。果たして、1800・・・奴は交差点の向こうからやって来た。
地球の裏側というわけではないけれど、東京から遠く2,000kmも離れた知らない街の交差点で、時間を合わせていたとはいえ、待ち合わせで会えたのが妙に不思議だった。聞いてはいたが沖縄はやたらと物価が安く、びっくりするような大盛りの料理ばかり並ぶ夕食を食いながら、明日以降の相談。実は奴は、前述のように普段は特にヒコーキに興味があるわけでもないのだが、密かに狙っているデカい獲物があるという。それは・・・

ロッキードSR-71A、通称「ブラックバ−ド」。アメリカ空軍が誇る、世界最高速、マッハ3.3で飛行できる航空機。名設計者、ケリー・ジョンソン率いるロッキードのスパイ機開発チーム&秘密工場、「スカンク・ワークス」で開発されたCIAの偵察機、A-12から発展した空軍の戦略偵察機*1は、1968年3月からカリフォルニア州ビール空軍基地の9SRW(第9戦略偵察航空団―当時)よりDet.1(第1分遣隊)を編成して常時数機が嘉手納に展開、主に中国や北朝鮮を対象にして上空偵察を行っていた。ちなみに、ブラックバ−ドの海外展開はここ嘉手納のDet.1の他にはイギリス・RAFミルデンホールに展開したDet.4があるだけで*2、しかもミッション数ではミルデンホールはおろかホームベース・ビールからのものに比べても群を抜いて多く、「SR-71といえば嘉手納」のイメージは空軍でも広く定着していた。ために、厳しい選抜を勝ち抜いて選ばれたエリート揃いのクルー達は、SR-71の姿態を沖縄に多く生息するハブに見立て、非公式のニックネームとして「ハブ」を名乗った。この名前は9SRW本隊でも広く定着し、アメリカ空軍で誰にでも通用する意外な日本語名詞の一つとなった。
君沖縄まで来ていいもんに目つけたね、東京でも湾岸道路辺りに生息してるらしいけど、やっぱりこっちが本場だからね、じゃ明日あたり、ちょっくらハブ狩り行ってみっとすっかな・・・年季の入ったマニアともなれば、このコザに何日も長逗留して、ホテルから翌日のフライトに向けて夜遅くまで灯りの消えないハンガーを見て(それをスパイと言うのでは!?)動向を把握できるらしいが、こちとらそんなノウハウも情報力もなく、当時は車の免許もなかったので、翌日はバスに乗って国道58号の海に面したランウェイエンドに陣取り、狂ったような南国の日差しの下でひらすら待った。しかし、さすが極東最大の空軍基地、地元18TFWのイーグルはもちろん、当時18TFWに所属していた15TRSのRF-4C、岩国から訓練でやって来るVMA-214のA-4M、こちらも地元376SWをはじめ本土の部隊も交じってのKC-135など、多彩な顔ぶれに飽きることがない。そして、昼頃・・・
「ブラックバードだ!!!」黒く背の高い双尾翼がこちらに向かって近づいてきた。05で上がるので当然離陸は撮影できない。くるりと向きを変えてしばしホールド・・・突然、ノズルからオレンジの炎を出し、ブラックバ−ドは滑走を始めた。燃焼室に燃焼添加剤TEB(トリエチルボラン)が噴射され、最大推力34,000lbという化け物エンジン、J58がフルバーナーレンジに入ったのだ。そしてブラックバ−ドはあっという間に北東の空に姿を消した。
長いときには8〜10時間にもおよぶというブラックバ−ドのミッションだが、いつ帰ってくるのだろう、日が暮れちゃうかな・・・と心配していたのに対して、願いが通じたか4時間ほどで帰ってきた。オーバーヘッドで帰って来たのは巨大なスルメイカかウルトラホーク1号か・・・「来た!来た!」慌ててカメラを構えて位置につく。

帰ってきたのはSR-71A、シリアル64-17974。同機は沖縄における「ハブ・ミッション」の最晩年、この写真が撮影された約8カ月後の1989年4月21日にフィリピン沖で墜落した機体である。特殊な任務故に損耗数もそれなりに多いブラックバードだが、これは同機最後の事故例となった。垂直尾翼には第1分遣隊を表す「1」にハブがからみつく赤のマーキングが描かれているほか、クロスする半月刀が描かれている。この半月刀の由来は、「世界の傑作機」No.100に64-17975への記入例とともにその解説が載っているが、2機に描かれていることを考えるに、若干疑義の残るところである。
海上から進入してくるブラックバ−ドをファインダーで追うが、予想していたのは裏切られ、その姿からは想像できないほどゆったりした優雅なアプローチだった。しかし、スピードは高くないのだが、逆光・・・しかも、ちょうどフィルムが切れてしまうというタイミングの悪さ。それでも、訓練ミッションだったのかそれとも本番でもそういう手順になっているのか、何度かタッチアンドゴーを行って、やっと降りた。おかげで、フィルムを交換して国道を順光側に走り、ラストチャンスと夢中でシャッターを押したのが上の写真。初めてその姿を目の当たりにして、しばし唖然。あれがブラックバ−ドか・・・!
今にして思えば、安物のズームレンズではなくもっといい機材で、ネガなんかではなくてリバーサルを湯水のように使って撮れば良かった、とは思う。しかし当時、それほど余裕のある身分でもなく(さっき金には困らないって言ってなかったっけ?)、機材に費やせる資金はこれが限界。ま、そんなこと言ったら、道を極めて今頃戦闘機同乗の空撮カメラマンにでもなってなきゃおかしいか・・・これが、私とブラックバードの一期一会。彼女のキャリアの本当に最後に、間に合っただけでも幸運だった。この沖縄行の約1年半後、1990年1月にDet.1は嘉手納での23年余におよぶ活動を終え、ビールに帰っていった。そして同月末、世界最速の航空機、SR-71ブラックバ−ドはNASAに移管された3機を残して、マウンドを降りた。
後の記録を見れば、終わりが見えつつあった冷戦を反映して、1988年のDet.1のミッション数は前年に比べ激減しており、それでも計算上は3〜4日に一度は飛行する頻度ではあるが、よく撮影できたものだと今になって思う。決して本土に姿を現すことのなかった黒い怪鳥。アメリカか沖縄に行かなければ見ることはかなわなかったし、もちろん若い連中には殿堂入りの飛行機でしかないだろう。ヒッヒッヒッ・・・
オレは、ブラックバ−ドを見たことあるんだぞ。

*1:戦略偵察機という分類は他に例を見ないものである ちなみに、カテゴリ初の機体であるブラックバードに「71」という数字がつかられているのは、2機のみが製作されたが実用化には至らなかったノースアメリカンXB-70バルキリーの追い番とされているためである

*2:ビールの9SRW本隊には1SRS、99SRSの2個飛行隊が存在したが、恒久的に海外展開を行った2基地に対しては飛行隊単位の組織は行われず、どちらも航空団直轄の分遣隊となっている