行くか8耐!TECH21リバイバル

Blueforce2007-07-19

もう近年はすっかり忘れているけれど、7月は8耐の季節。
かつて、五木寛之が「現代のお伊勢参り」と評したこのレースの祭典に、何年か連続で通っていたことがあるが、もうバイクを降りてから6年近くになるし、最近はマシンはともかくライダーがすっかり代替わりしてしまって、名前もほとんど知らず、誰もが通り過ぎる青春の日々のひとコマのような形容で自分の人生の中では総括されつつあったのだが、また某掲示板でうちの本隊のリンクが貼られていたのを見つけたついでに、ちょっと興味を惹くニュースを発見してしまった。
ヤマハ初優勝マシン 87年YZF750(TECH21)のデモ走行決定!ライダーは平忠彦氏!
自他共に認めるホンダ党(後にヨシムラ―スズキ党にもダブル入籍)である私は、ヤマハカワサキのバイクには一度も乗ったことはないし、平のファンというわけでもない。平忠彦――誰もが認める典型的な美男子、グランプリライダーという出来過ぎのような話であるが、そのあまりに融通のきかない二枚目ぶりに、私は当時どうしても惹き付けられるものがなく、所属メーカー自体がアンチだったこともあり、特に彼を応援したことはない。だって俺が応援しなくても彼全然問題ないしwwww
今では信じられないことだが、バイクの出荷台数も現在の4倍位あり、バイクに興味ない一般人でも8耐や平のことは若い奴なら知っていた。車やスキーなどと同じく、学校などでの話題について行くための若人の嗜みの一つであったのだ。そして平といえば誰もが思い浮かぶのが、今回リバイバルで走行する"TECH21"。資生堂が展開した若い男向けの洗顔・整髪料ブランドである。文句の付けようのない二枚目の彼はこの商品群のイメージキャラクターとなって、POPEYEやホットドッグ・プレスにジャカスカ出稿したものだから、その直後の狂乱資本主義(一般的にはバブル景気と称される)を支えることになる色気づき始めたチェリー諸君はみんなこれで顔を洗って髪をウエットになでつけていた。かくいう私もその一人。おいファンじゃなかったんじゃないか?
そして8耐は、こちらもひっそりとやっているような現在からは想像がつかないが、とにかく若者が注目する絶好の広告媒体として、スポンサードする企業やブランドが後を絶たず、決勝に集う20万人!の観客と相俟って一種異様な盛り上がりを見せた夢(悪夢?)のような数年間を送るのだが、当然この"TECH21"ブランドは、当代一流のグランプリライダーをイメージキャラクターに起用しただけあって、満を持して4スト耐久レースにワークス参戦するヤマハのエースチームを丸抱えでスポンサードすることになるのであった。
最初のチャレンジは1985年。第1・第2の2人ライダーが必要な8耐*1は、平とペアを組む第2ライダーに2年前に引退していた1978〜80年の世界グランプリ500ccクラスチャンプ、偉大なる「キング・ケニー」ことケニー・ロバーツを引っ張り出してきて、大形新人として破竹の勢いであったホンダのワイン・ガードナーと夢の対決となった。さすがレースの神様と呼ばれたケニー・ロバーツは、2回りもキャリアの違うガードナーをまったく寄せ付けず、この年デビューのニューマシン、FZR750で奇跡のデビューウインを飾る・・・かと思われたが、ゴール30分前にエンジントラブルによりリタイヤ。これが日本2輪レース史上最大のジンクスとなる平と8耐の闘いの始まりであった。
翌1986年、フランス・ソノートヤマハの500ccライダーであったサロン兄弟の兄、クリスチャン・サロンと組んだ平は、またしてもエンジントラブルでリタイヤ。そして87年、TECH21レーシングチームは3年目にして念願の初優勝を遂げるが、表彰台に平の姿はなかった。前週のフランスGPで転倒、負傷してしまい、欠場となってしまったのだ。
ここからはちょっと余談・・・当時―今でもそうだが、8耐はフランスGPとイギリスGPの間に設定されており、3週連続レース、しかも2ストのグランプリマシンと4ストのTT-F1マシンを乗り分けるという過酷な巡業を余儀なくされていた。2スト専業の生粋のグランプリライダーは、畑違い、しかも自らのチャンピオンシップとはなんの関係もない極東のローカルレースに出ることに本来は関心も義務もなかったが、そこは2輪業界を支える4大メーカーの母国で開催されるレース、おりしもご多分に漏れずバブルの萌芽がここ鈴鹿にも育ってきて、チームを運営するメーカーサイドもプロモーション上スター選手をリングに上げて盛り上げることに各社で血道を上げるようになった。
そこへ来て、タイミングが良かったというかそれが歴史の必然というか、ガードナーに代表される、4ストのレースカテゴリから上がってきたオーストラリア人やアメリカ人のライダーが、8耐をステップアップの場にしてヨーロッパ人がメインであったグランプリの世界に大挙進出してきた。もともとの出身が4ストだから乗り慣れているし、8耐は自分のスター選手にしてくれた思い入れのあるレース、年間の契約条項にも「8耐は走ること」ということが明記され、ギャラもたんまりはずんでくれる、しかもFIMもそれを配慮してグランプリの日程を7月最終週は空けてくる―というわけで、80年代中期以降は極東のマイナージャンルレースに各メーカーのトップグランプリライダーが集結して激突、という事態に至るのである。
話は戻るが、ヨーロッパから一番暑い時期の日本に来てまたヨーロッパに戻る3週連続、そんな夏の過密スケジュールをこなす当時のトップライダーには、それなりに事故や不調もついて回った。最初でつまづいた平は87年の8耐を監督としてピットから見守る羽目になったのだが、皮肉なことに大形新人のケビン・マギーと助っ人のマーチン・ウイマーが勝ってしまったのだ。
88年は後に歴史に残るグランプリライダーとなるマイケル(ミック)・ドゥーハンと組んだものの、またしても、今度は10分前にエンジントラブル。

89年はカラーリングを一新したマシンでジョン・コシンスキーと組んだが約1時間半前にエンジントラブル・・・と、まるで筋書きのあるドラマのような展開に毎度ハラハラさせられた人も多かったろう。当時、レースのスタート前や夕方になるとTECH21の話は皆がネタにしていた。「そろそろ止まるぞ」などと・・・そして、ブランド展開から5年、商品の寿命もそろそろ終わりに近づいた1990年。
ヤマハは、ついに最終兵器を投入してきた。1人では参戦できない耐久レース、ブランドの「核」である平を支えるペアライダーは毎年変わって、最初のケニー・ロバーツはまさに度肝を抜く人選であったが、その後ベテラン、新人がとり混ぜ、鈴鹿をパープルのツナギと「21」のゼッケンをつけて毎年走り抜けていった。そして、Shiseido TECH21プロジェクト有終の美を飾るために起用されたのは、誰もが驚いた、エディ・ローソン
80年代に4度の500ccワールドチャンプを獲り、近代グランプリ史上にその名を不動のものとしていたローソンだが、出身が4ストロークAMAスーパーバイクにもかかわらず、グランプリに移ってからは一切4ストレーサーには乗らず、一度も8耐に参戦したことはなかった。その寡黙さと愛想のなさからガードナーのような熱血ライダーのような人気はなく、その実力とは裏腹に日本では比較的影の薄い存在ではあったが、実力には疑うところはない。まして、それまで長らく縁がなかった4スト―TT-F1レーサーを駆る、そして平と組むというニュースにファンは狂喜した。ケニーで始まり、エディで終わる・・・そして彼の起用は、これまで自身のライディングでは1度も優勝を経験していない平に今度こそは、最後こそは勝たせてやろうという、ヤマハが用意した最高のお膳立てだった。

これが1990年8耐のTECH21チーム21号車*2。前年に200万円の価格で限定500台が発売された市販バイクの最高峰、FZR750R・コードネームOW01をベースにして、従来形のFZR750をベースにした89モデルからフルチェンジを図ったマシンで、"GENESIS"コンセプトに基づいた5バルブエンジン、テーパーした太さと変形断面が特徴の"DELTABOX"フレーム、サーボモーターで動く可変バタフライバルブを排気管に内蔵した排気デバイス"EXUP"などヤマハのマシンならではの特徴を満載している。カラーリングはあまり評判の良くなかった(私だけ?)89モデルから再び一新、濃い青と下半分のシルバーを中央でブレンドするものになった。注目していただきたいのはアンダーカウル、クランクケースカバー部の切り欠きの下に見える色が変わっている部分で、これは実は事前に公募した一般人の「応援団」の名前が書かれているのである(推定10Q位)。タイヤはミシュランでフロント17インチ、ホイールはマルケジーニ、ブレーキはNISSIN(フロント6ポッド)、サスは前後ともにヤマハの関連会社、創輝製のものを使用する。
予選は平が1回目2分15秒819、2回目2分17秒357、ローソンが1回目2分13秒520(スターティンググリッド決定タイム)、2回目2分13秒969を記録、ホンダのエースチーム、ゼッケン11番のマイケル・ドゥーハンが出した2分13秒427、この年大成長株、B.V.Dヤマモトレーシングのゼッケン46番・岩橋健一郎*3が出した2分14秒433に次いで3番グリッドスタートとなった*4。レースはポールスタートのドゥーハンがスタートでもたついたもののすぐに挽回し独走態勢となり、平も同様にスタートを失敗したが、ローソンに交代した時点で2位に上がり、下馬評通りの1―2体制に。しかし41週目、ガードナーが転倒、大きくタイムロスしたもののなんとかピットに戻り、この後ガードナーはもちろんドゥーハンも鬼神の走りで3分のビハインドを2分まで詰めてきたが、ちょうど折り返し点、100周目でガス欠・・・最強の敵はいなくなった。TECH21#21はこの後、独走態勢を固め、一度もトップを譲ることなくゴールへと突き進む。優勝請負人のローソンは、きっちりと自分の仕事をこなしたのである。
それからのことは今でもはっきり覚えている。もともとTECH21もヤマハも応援しているわけではなく、好きなヨシムラは6位固定で優勝は無理そう、次に好きなガードナーの11番はとっくに戦場を去り、あとは私的には消化試合といった趣。猛暑のサーキットも夕方になるとめっきり涼しくなる。昼間にビールを飲み過ぎたこともあり、のどが渇いたとア○エリ○スに切り替えてさらにガブガブ飲んだのがいけなかった。アルコールとアイソトニック飲料をチャンポンで大量摂取してはいけないと言われていたのに、急に吐き気がして立っていられないほどになってしまったのだ。
TECH21プロジェクト、感動のゴールは、すでにレースどころではない吐き気との闘いのなかで、あっけなく過ぎ去った。我々はこの後、ツアーバスに乗って夜通し東京まで帰らなければならない。果たしてこのゲロゲロ状態でバスになんか乗れるのか!? 心配した通り、最初の1時間近くは車内で地獄の苦しみを味わったのを覚えている。が、名古屋に近づく頃には大分症状もおさまり、後は金曜の予選1日目以来3日間の疲労に熟睡したままバスは東京に向けて走っていったのであった。確かに、ビールもア○エリ○スも浴びるように飲んだし、当時その手の飲料が各社から出始めた頃で、アルコールとの飲み合わせについていろいろ言われていたのだが、今にして思えばあんなに急激にヤバイ症状を呈するわけがないな、という気もする。やはり疲労と暑さで体が弱っていたこともあったのだろう。そんな情けないエピソードで、私の90年の8耐は幕を閉じ、8耐人気絶頂期を象徴する名物チーム、TECH21を見た最後となった。嗚呼伝説の終わり。

予選で鈴鹿ダンロップを駆け抜ける平の勇姿。アライのアストロベースの平カラーリング(ベンチレーションつきタイプ 昔は猫も杓子もこれをかぶっていた)、Takaiのツナギがまぎれもない平のアイデンティティを主張する。右手の赤は第1ライダーを示す赤腕章、両手に巻くようになるのは翌1992年から*5
私が最初に8耐を観戦したのは1988年のこと。大学のバイクサークルの合宿に合わせて買ったばかりのCBR400RRで行ったもので、この年は(なんと!)カメラを持って行かなかったので写真が1枚もない。89年もあまりいいのは残っておらず、比較的素材があるのが90・91年。私が歴代TECH21YZFの中で格好良さの順位をつけたら、一番格好が良かったのが88、以下85→90→87→89になるかな?だから今回のリバイバルランでも、どうせ乗るなら自身で優勝を経験した有終の美を飾る90に乗ればいいのではないかと思うが、なぜか87なのだという。まあマシンが現存しなかったり、残っていても走行可能な状態ではない、などの理由がある場合もあるから、仕方ないのかもしれないが、若干残念・・・ん? 別に見に行くわけじゃないんだから、何年式が走ったっていいだろう、って? いやいや・・・ちょっと、見に行こうかな〜、なんて思っちゃってるわけです。

*1:チームのエントリのレギュレーションには第3ライダーまでの登録が必要

*2:8耐にはホンダワークス、HRCのエースチームの11号車やヨシムラの12号車など、特定のチーム用の実質的に指定席となっている名物ナンバーがある TECH21撤退後、ゼッケン21はヤマハワークスの事実上の指定ナンバーとなり、現在でも踏襲されている

*3:この時の第2ライダーが2006年6月6日にマン島TTで事故死した前田淳

*4:タイムではローソンの2分13秒520の方が岩橋の2分14秒433より上だが、この年のFIMレギュレーション改訂により、予選をA・B組で組分けして行った場合両組のタイム順に交互にグリッド順位を取るようになったため、B組1位の岩橋・前田組が2番手につけることになった

*5:第1・第2ライダーの登録は、当然であるが通常は格上の選手が第1となる 正直に言えば平とローソンでは世界チャンプ4度に輝くローソンの方が格は上だが、TECH21のように平を中心にしたプロモーションの色彩が強いチームの場合は、助っ人となるグランプリライダーの方が第2に回る例がいくつかあった