8耐黄金期Photoコレクション

Blueforce2007-07-20

年に一度の季節ネタということもあるが、前日のエントリで調子に乗ってきたので、いろいろ見つくろってきたPhoto類を大量放出して8耐思い出話編パート2。というか、本来この話題、軽〜く済ませるつもりだったのに例によって書きたいことがいろいろ出てきて、結局2回分に分けることになったもの。なんでいつもこうなっちゃうんでしょうかね?
実は前回紹介したTECH21カラーの87YZF750の平忠彦によるリバイバル走行だが、1978年に始まった鈴鹿8耐30回大会記念イベントの一環として行われるものらしい。そして今回は、このYZF以外にも懐かしいマシン、ライダーの復活デモ走行が予定されている。現役のライダーなどほとんど名前を知らず、マシンもとても格好いいとは思われない奇っ怪なスタイルをしたものばかりで、正直あまり興味は沸かないのだが、今回11年ぶりの鈴鹿詣でを検討しているのは、このデモ走行が気になるからなのだ。

1990年のホンダエースチーム、ゼッケン11番のOKI HONDAレーシングチーム、ワイン・ガードナー/マイケル・ドゥーハン組のRVF750。88・89年ともメインスポンサーがつかず、HRCカラーで走っていたホンダワークスのRVF750だが、この年から沖電気がメインスポンサーについて企業ロゴが入った。
最大手メーカーとしてその圧倒的な開発力を生かして、マシントラブルさえ起こらなければ無敵の戦闘力を誇ったV4マシン、RVF750。特にこの年の仕様の特徴として、アッパーカウルナックル部の下面、ミドルカウルエア排出口の後ろ、そしてアンダーカウル側面に開けられた無数の穴―パンチングメッシュが挙げられる。これはコーナーでの操安性にメリットがあるといわれ、なんとすべて手作業で穴を開けるのだという。スペアを含め、いったいいくつ作ったのか・・・とても市販車には反映できない代物だが、私の乗っていた95CBR900RRは、これとは比べ物にならない数ではあるが、一応ナックル部に小穴が開けられていた。

同年の予選でダンロップを行くワイン・ガードナーケニー・ロバーツが先鞭をつけた、上体をシートからずらしてオフセットし、低い姿勢でコーナーをクリアする、いわゆるハングオンを、完成したスタイルにしたのがガードナー。膝のバンクセンサーは完全に接地して摩耗しているが、当時峠でブイブイ言わせていた走り屋達はこのバンクセンサーがすり減っているのがステータス、膝をするテクニックがないのでヤスリで一生懸命傷をつけていた輩も少なくなかった。コーナーで見ていると、とにかくガードナーのハングオンは低い。ライディング理論から言えば、低ければいいというものではないのだが、素人にはその戦闘的なスタイルが一番アピールしやすい。とにかくガードナーは、当時すべてのバイク乗りにとって憧れのヒーローだった。
8耐で大活躍を演じ「ミスター8耐」との名前を頂戴しながら、それをステップにグランプリへと、またたく間にスターダムを駆け上がっていった彼だが、その自らにとって特別な意味合いを持つこの一風変わったレースへの恩義を忘れず、グランプリライダーながら毎年8耐のエントリーリストに名を連ねた。それが国内でのスポーツバイク販売台数に直結する8耐への取り組みに腐心していた他メーカーをも刺激し、80年代から90年代前半、各ワークスのトップグランプリライダーが血みどろのバトルを繰り広げる夢のレースへの布石となるのである。ガードナーが引退した後は、グランプリライダーの参戦は1人減り、2人減り・・・現在では皆無になってしまった。
90年は中盤でガス欠リタイヤを喫してしまっただけあって、今回復活走行を行うマシンは予定ではこの次の年、91年モデルとなるが、このハングオンが再び鈴鹿で見られるのだ。それはまるでトムキャットが復活してデモフライトを行うのと同じくらい刺激的なニュース。行こうかどうしようか・・・迷う・・・

さて・・・これは何でしょう。今回の30周年記念行事で特別走行を行ううちの1台、1980年の第3回大会優勝車、ウエス・クーリー/グレアム(グレーム)・クロスビー組のヨシムラGS1000Rなのである。実はこの場所、鈴鹿ではなく、当然1980年当時の撮影ではない。元ヨシムラのスタッフで、現在は総合バイクチューニングショップ、アサカワスピードを営む浅川邦夫氏の、ショップ内でレストア作業を行っている時の貴重な写真なのだ。
1978年、まだ「ヨシムラパーツショップ加藤」として厚木に店を出していた頃のヨシムラに入社し、8耐第1回からかかわってきた浅川氏は、近代ヨシムラ社史や全日本TTフォーミュラレースの生き証人ともいえる人だが、1991年に退社して93年に店を開いた。だから、この年のエキジビションとしてGS1000Rの復活走行が企画された時、そのレストアを任されたのだ。フレームだけのストリップ状態ながら、丸スチールパイプの重そうなフレーム、2本リアサスや2ポッドのフロントブレーキキャリパーなど、一目でマシンの時代がわかる。

レストアを待つエンジンとタンク。開業当時、アサカワスピードの事務所兼ワークショップは駐車場に設置された海上コンテナの中にあった。ウインチやら作業台やらもなく、重いエンジンの移動もすべて人力。無造作に転がされているこの小汚いタンクとエンジンが、伝説のヨシムラ8耐優勝マシンとは・・・もう12年も前の話だが、なかなかエキサイティングな体験だった。

まさに実物の醸し出す重みが伝わってくる、傷だらけのアッパーカウルとシートカウル。これらもきれいに塗装し直されて、1995年8耐の記念イベントで復活走行を果たしたのである。そして今年、私は再びこのマシンを、今度は走行している姿を鈴鹿で見ることになる・・・はず。

1990年のゼッケン1番、アレックス・ビエラドミニク・サロン組のシード・スウォッチ・ホンダRT、RVF750。前年8耐優勝のコンビでそのまま参戦したチームで、この年3位入賞した。
ビエラは前年の8耐優勝で日本にも名を知られた耐久レーサーで、89年のFIM世界耐久カップ*1チャンピオンとなり、エルブ・モアノーに代わる新耐久王の座に就いた。ドミニク・サロンはサロン兄弟の弟で、兄クリスチャンがもっぱら500ccグランプリ畑を歩んだのとは対照的に耐久レースを中心に戦っていた*2

タイムアタックを行うビエラ。このコンビ、前年は4輪レースで有名な生沢徹が急ごしらえ(多分 間違ってたらごめんなさい)でエントリーしたビームスホンダで出場したのだが、白い無地のカウルにテープを切り張りしたようなマークが入っただけのまるでプライベーターのような出で立ちだったにもかかわらず、居並ぶグランプリライダー組を向こうに回して優勝してしまい、本年はお金の回りも良くなったか、全日本500ccで伊藤真一をスポンサードするSEEDがスウォッチとコラボでスポンサ−についたため、非常に美しく完成されたカラーリングとなっている。決勝3位も立派。8耐の本来の位置づけ、FIMカップ鈴鹿ラウンドとしての入賞でポイントを稼いだビエラはこの年も連続で年間チャンプに輝いている。

そのゼッケン1番をスターティンググリッドに並べるべくピットを押して歩いて行くのは当時フランスホンダの名メカニック、グランプリからパリダカまでホンダのレースあるところどこにでもその姿が見られた「ライオン丸」ことギー・クーロン。現在のヤマハでメカニックとしてご健在のようである。
彼は前年のビームスホンダで、トップ走行中エキゾーストに異音が発生したのを受け、マフラーの亀裂と判断し工具とスペアパーツ一式を用意してピットインさせ、誰もがトップ争いからは脱落したと疑わない中で冷静に修理を行い、再びトップでコース上に復帰させた逸話を持っている。この年グランドスタンドでその様子を真のあたりにして、彼の腕はさることながらその冷静さには本当に驚かされた。スプリントでひとたびスタートしてしまえばメカニックにもうやるべきことはなく、不具合が出てピットに戻ればレースは事実上終わりだ。だが耐久では適切な修理さえ行えば、まだまだ勝ち目はあるのだ。グランプリにはグランプリの、耐久には耐久の戦い方がある。クーロンは「8時間続くスプリント」と言われる8耐で、誰もが駄目だと思ったトップ走行中のアクシデントにも動じず、耐久の仕事をしたのだ。

スタート前、グリッドに並んだ状態でキャンギャルやスタッフと雑誌の写真撮影にポーズを取るのは私の一番好きだったライダー、偉大なる耐久王エルブ・モアノー。パラソルで顔が隠れてしまっているが、その隣に立つのはフランススズキのチーム監督、ドミニク・メリアンかな? さらに右隣に立つのは、スズキキャンペーンガール添田あさ子さん。彼女は前年はネスカフェアメリカーナチームのキャンギャルをやっていたのだが、他のキャンギャルとは明らかに一線を画すストレートヘアの清楚なお顔と真っ白な肌の色、上品な白のハイレグという出立ちで、私の一番のお気に入りだった人(その頃のお顔は、やっぱりちょっと辛島美登里さんに似ています・・・)。それが、モアノーさんの隣に立っていたのもびっくりしたが、さらに驚いたのはまったくイメージの違うショートの髪に日焼けした肌、ワイルドな長袖・ホットパンツという衣装(これもタイチ製なのか?)・・・これをスタンドから望遠レンズで撮っている時、正直かなり複雑な心境でした・・・でも、添田さんマジ可愛かったな〜、今どうされてるんでしょうか。この日記見てたらコメントお願いしますwwww

タイムアタック時のエルブ・モアノー。予選は1回目2分18秒769、2回目2分16秒824(スターティンググリッド決定タイム)、第2ライダーのモアノーと並ぶ「耐久王」、パトリック・イゴアが1回目2分18秒061、2回目2分18秒358を出し、11位での出走となった。予選タイムとしては18秒代はトップのドゥーハンが記録した13秒427と比べ5秒近くの差があることになるが、これがスプリントライダーと耐久ライダーの求められる資質の違い。もちろん、絶対的なタイムでは世界最高峰の500ccに乗るグランプリライダーに敵うはずもない。が、8耐は本来日本のローカルレースではなく、世界耐久選手権の中の1戦。優勝するに越したことはないが、トップグランプリライダーが勢揃いする8耐で優勝するのはかなり難しく、それよりも堅実にポイントを重ねることが重要となる。1戦だけやって来て去って行くグランプリライダー相手に熱くなるような幼稚な真似はしない。それに、8時間の長丁場では何があるかわからない。雨が降ったり、スプリントライダーが経験することのない夕闇迫る時間帯などの悪条件では、ひたひたと後ろから安定したタイムで忍び寄ってくる耐久ライダーは恐ろしい存在だ。実際、この世界耐久選手権80、83、87、88と4度の栄冠に輝く耐久王は8耐でも83年に優勝を飾っている。この年のリザルトは10位。

予選時の撮影だと思うが(決勝当日はこんな悠長なことやってられない)、テレビ(ビデオ?)の取材を受ける言わずと知れたヨシムラの総帥、吉村不二雄氏。前年に社長に就任したばかり、先代はこれまた言わずと知れた伝説のチューナー、pop吉村こと吉村秀雄。popはこの辺りから体調を崩し、サーキットに姿を見せることは少なくなった。私は1985年に四谷4丁目のスズキショールームで催されたサイン会でお目にかかりサインをもらったことがあるが(この時に辻本聡と亡くなった来多祥介にも握手してもらいサインをもらっている)、今となっては一生の宝物である。

ヨシムラのエースナンバー、ゼッケン12番のダグ・ポーレン。同時代のライダーにはほとんど例のない、リーンインをせずマシンのバンクと平行に上体と頭の姿勢を保つ「ポーレン乗り」のフォルムが、一目でわかる彼の特徴。これがものすごく格好良くて、自分で真似てみたが本当に死ぬ思いをしました(^^;)・・・彼は以前にも書いたことがあるが、この年のシーズンイン前、転倒して左足がチェーンとスプロケに巻き込まれて指をほとんど失っており、誰もが選手生命は断たれたと思ったのだが、何食わぬ顔で初戦から普通に走った。強い意志と冷静なライディング理論、そして営業力と茶目っ気を兼ね備えた、実際に会って話をしたこともあり私の大好きなライダーの一人である。ヘルメットはすでにアライ・ショウエイの日本メーカー2社でほとんどのシェアを占めていたのに、彼のトレードマークともなっているagvで、私もしばらくこのレプリカをかぶっていたことがある。ツナギは長らくクシタニを愛用していたが、この頃の名のあるレーサーがほとんどそうであったようにナンカイに代わってしまっている(ちょっと残念)。この年はミゲール・デュハメルを第2ライダーに、8位スタートでリザルトは6位。これは同年のスズキ勢最高位である。

カップヌードルレーシングチームの伝統、カップヌードルの容器を象ったクイックチャージャー。スプリントレースとは異なり、耐久はレース中にピットストップで燃料の補給が必要となるのだが、これを悠長にタンクからホースでダボダボ入れていたのでは勝負はおぼつかない。さりとて圧送は禁止されているので重力給油なのだが、これを大きな高低差を取って勢い良く入れてしまおうというのがクイックチャージャー。送油用と空気抜き用の2本のホースを束ね、タンクの給油リセプタクル?にガポッとはめ込めばものの数秒で20リッター近い量のガソリンが給油されるというメカニズムだが、各チームともその仕様には独特のノウハウがあり、デュアル装備や夏場の高温環境下で少しでも温度を下げて揮発を防ぎ、燃焼効率を上げるためドライアイスで冷却するものなど、ピットウオークでの見どころの一つであったが、カップヌードルはこのようなデザインでいつもウケを取っていた。
マシンはRC30、カップヌードルといえば当分遣隊でも何度か触れたように、青木宣篤をはじめとした三兄弟をライダーに据えて発足したチームだが、この年は宣篤の全日本250ccクラスデビューの年で、まだ若いこともあり耐久との二足の草鞋はならず、ライダーは加藤裕之/先日亡くなったレース界の名物男、阿部孝夫のコンビ。ああ俺、阿部さんの追悼は日記で書いてないなあ・・・

決勝前、ウオームアップのフリー走行に出るマシンを見送るピットの様子だが、なんと豪華なショットだろうか・・・右側から、世界耐久組のミノルタスズキ、ゼッケン3番(11番スタート)のモアノー、後ろに4番のミシェル・グラツィアーノ(61番スタート!)、それを見送るツナギを着た4番第2ライダーのクリストフ・ブーエバン(右側 ラッキーストライクのボードの下)、3番第2ライダーのパトリック・イゴア(ブーエバンの左)、メカニックによる調整が続いているヨシムラの1号車、ゼッケン12番(8番スタート)のミゲール・デュハメル、その後ろにマシンに跨り12番のピットアウトを待つゼッケン45番(25番スタート)のリック・カーク、左端にはギー・クーロンの姿も見える。

こちらはチーム・シンスケと並ぶ芸能人の名物チーム、SASHU國武舞レーシングのゼッケン92番、福田照男/清水国明コンビ。「國武舞」との異名を持つ元あのねのねの清水は、8耐にもっとも熱心に取り組んだ芸能人。島田紳助が監督業に留まり実際に走らなかった(と書くとバカにしているようだが、チーム監督も並大抵の思い入れと覚悟でできるものではない 彼も本当に8耐にかける情熱は並々ならぬものがあった、と思う)のに対し、国際A級ライセンスまで取って90年の8耐にエントリーしたのである。この時清水氏すでに39歳。チームオーナー兼運転手はしおらしく第2ライダーに回り、第1ライダーを務めるのは80年代初めに単身世界グランプリ250ccクラスに乗り込み世界を転戦した経験を持ち、当時テレビでの世界グランプリ中継の解説者として有名だった福田照男。マシンはモリワキZero-VX7で、スタート順位は57位、決勝は48位(完走チーム中最下位)で完走を記録したのは立派。

ここでやっと初登場のカワサキチーム、3台体制でエントリーのShin-Etsu Kawasakiゼッケン10番、宗和孝宏/塚本昭一組のZXR-7。長らくワークス活動を休止していたカワサキは社員有志によるプライベーターチームのチームグリーンが市販車のGPZ750で参戦を続けていたが、1987年にワークス活動再開、88年には宗和と多田喜代一のペアで日本人最高位の5位に入賞し、その年の日本人最高位チームを翌年のルマン24時間に派遣するという特別企画として塚本を加えた3人体制でルマンに出場、3位に入賞した実績を持っている。カワサキ国内チームは1989年より信越化学のスポンサードを受け、一挙に若年層に同社の知名度が上がったのも懐かしい話。同車はこの年予選4位、決勝は9位。

同年もう1台出場のZXR-7???? いやいやこれは、この年のピットウオークに入場すべくゲート前で並んでいた時、たまたま鉄柱にしがみついていたカエルさん。実際の大きさは親指の爪ほどしかなく、朝からの酷暑の中、身じろぎせず貼りついていた(実は縦の姿勢になっている―左側が上)。しかし本当にカワサキのマシンはカウルをつければカエルに、シュラウドをつけたオフ車はバッタに見える・・・

1992年は私が見た6回の中で、最高の内容だった思い出深い大会。この年限りで8耐からの引退を宣言した「ミスター8耐」ガードナーが、3年コンビを組んだドゥーハンに代えてHRC期待の新人、ダリル・ビーティーとのコンビで参戦するのに加え、さらにホンダからはビッグネームの参戦で、しかもレース自体も激しいバトルが繰り広げられた、歴史に残る名勝負の年である。
ビッグネームとは、1980年代初期の世界グランプリで「天才」の名をほしいままにした伝説のライダー、フレディ・スペンサー。1983・85年の2度500cc世界タイトルに輝き(85年は250ccとのダブルタイトル)、空前のバイクブームが勃興しつつあった日本でも、(若者だったら)誰もが名前は知っていたライダーであるが、当時日本で世界グランプリが開催されていなかったため、フレディが実際に走る姿を見たことのある者は少なく、そういった意味でも伝説のライダーであった。天才ゆえか非常に神経質でムラッ気のある人で、ドタキャンやら何度も繰り返した引退・カムバックなどで誠に毀誉褒貶の激しい人であったが、この92年の8耐に参戦することが電撃発表されると、ファンの間では大変な騒ぎになった。有終の美を飾るべく必勝を期すガードナー、伝説の天才ライダー、スペンサーが同門対決。さらに、全日本500ccで90年チャンピオンの伊藤真一、彼とコンビを組んだのがかつてヨシムラで2年連続全日本TT-F1タイトルを撮り、その後AMAスーパーバイクに活躍の場を移した辻本聡の全日本組も強力だ。正直、この年の8耐は他メーカーの印象は薄い。
というわけで写真のマシンは、フレディ・スペンサー/鶴田竜二組のミスタードーナツ・オクムラホンダRVF750サテライトチームでワークスの一段下のポジションなので、マシンの仕様は91モデル、写真ではわかりにくいが前年のパンチングメッシュを開けたカウルになっている(ワークスは1年限りでやめてしまった)。
このチームがどのようにしてスペンサーとコンタクトを取り、1年落ちとはいえワークスRVFを提供してもらったのか、一介の観戦者である私にはわからない。同チームのオーナーは、全日本250ccでホンダから出場していた奥村裕。毒舌のトークが売り物の全日本の名物男で、私も1990年だったか、当時毎回利用していたバスツアーの特典で、決勝後長島温泉で入浴と夕食会がついてきて、その夕食が奥村氏を招いてのトークショーとなっており、先程までのレース内容についてたっぷりと興味深い毒舌?を聞かされたのだ。とにかく、日本人にしては珍しく非常に饒舌で交渉・営業力のある人だったから、いろいろチャンネルがあってスペンサーにコンタクトを取れたのだろう。
同チームは前年も参戦はしているが、マシンはモリワキの市販マシンであるRC30のエンジンを使用したAEZO-VX7、ライダーは失礼ながら名前を聞いたことのない人だった。この年限り、セミワークスとしてホンダのラインナップに組み入れられたチーム。フレディとタッグを組むのは前年までカワサキワークスに在籍していた鶴田竜二。恐らく2人はまったく面識がなかったと思われる即席コンビだが、この年フレディは初めて日本人の前でこのマシンを駆って全力走行をする姿を見せた。かつての彼は何かと言い訳をしてはレース途中で棄権してしまうような悪い癖があったが、この8耐では転倒を喫し、なんと再スタートを切り4位に入賞したのも驚くべきことだった。この年は本当に、涙涙のガードナー優勝、そしてそれを終始脅かし続けた伊藤/辻本組の、特に辻本の力走、そしてスペンサーのひたむきに走る姿にただただ感動の内容であった。

ホンダの大活躍の陰に隠れてしまった他メーカーで、スズキ世界耐久組を紹介してみよう。エルブ・モアノー/クリスチャン・ラビエール組のGSX-R750、ゼッケン4番。こうして見るとフランススズキのGSX-Rは毎年のように撮っているが、やはり手慣れた世界ラウンドの1戦で、ピットウオークにマシンを展示する余裕があったのだろうと思われる。本当にマシンを表に出さない、なかにはシャッターさえ閉めてしまっているチームもあるのだ。傾向としてはヤマハワークス系はあまり展示を行わなかったように思われる。
1992年のフランススズキはミノルタのスポンサード終了により、8耐にはなんと郵政省のスポンサーで参加。カウルには決勝日である「26.7.92」の消印、さらにゼッケンは切手をかたどったデザインとなっている。ゼッケンは前年の世界耐久ランキングを反映した「4」。GSX-Rは前年にベースモデルの市販車が水冷エンジンにモデルチェンジしたため、レーサーも空冷エンジンから水冷エンジンへ一新されたが、空冷エンジンの晩年には急速に性能向上が進んだ他社の水冷エンジン搭載車に比べ、特に夏場の出力低下が著しく、戦闘力は明らかに見劣りがしていたと言われる(89年時点で最大出力はおおよそ8%低下したとの資料あり)。この年は冷却の問題も解決したブランニューのマシンにもかかわらず、スズキ勢は久々に参戦のケビン・シュワンツも含めいい結果が残せず、ゼッケン4番もモアノーが転倒しリザルトは38位。

*1:年々人気が低落する世界耐久戦は1989年には年間4戦まで開催数が減り、世界選手権としての年間最低試合開催数を満たさなくなったため、世界選手権格式タイトルではなく独自にFIMが新設した「FIMカップ」なるものになった

*2:クリスチャンも昨日の日記で触れたように86年の8耐にTECH21で参戦したのをはじめいくつかの耐久レース参戦歴がある またドミニクもエルフでNSR500に乗っていたことがあるほか、グランプリ250ccでも主要なライダーの一人であった 耐久レーサーとは500cc以上に性格の違うと思われる250ccは、実は意外に共通する部分があるのか同時に乗り分けていたライダーは他にも数人いる 代表的な存在はジャック・コルヌー