8耐ピットウオークで懐かしのマシンを見る

Blueforce2007-07-30

28日・土曜夜、2200過ぎ出発。
まず行きつけのスタンドで満タンにしてから、すでにガラ空きの環七を南下、東名用賀のインターを目指す。11年ぶりの8耐詣でである。まだ昼間の暑さが残る都心を、冷房を効かせてここまで走ってきたが、もう邪魔な屋根は脱ぎ捨てて、いざ夜の闇に飛び込む!
道の好き嫌いがはっきりしている私は、普段は東名は絶対使わない。名古屋以遠に行く時は岩国行のように中央道を使うのだが、さすがに三重方面へは遠回り。で、今回は仕方なく東名に乗るのだが、それも大都市近郊区間のETC深夜・早朝割引適用限界の裾野インターまでである。あまりのんびりもできないが、さりとて一刻を争うような行程でもない今回のような場合は、低速道路(登録商標by tamo太郎さん)を使うのが所定。
本来なら三京―横新からずっと海沿いを丹念に回って熱函道路、因縁の初代ふうこ号果つる地、函南町役場前を通って、沼津から1国を西下するのだが、このルート、景色は大好きなのだが、三京―横新―新湘南バイパスはさすがにスルーするとしても西湘バイパス―真鶴道路―熱海ビーチラインと金払っていくと、ETCの深夜・早朝割引で裾野まで出るのとあまり変わらなくなってしまうのだ。普段の私ならそんな酔狂も構わないのだが、本日はそこまでのんびりもしていられないということで・・・裾野で降りて、いつもなら料金所をそのまま通って再び東名に乗り直し、1区間乗って沼津で降りてあとは1国という行程を取るのだが、さすがに深夜で246もガラ空きだろうと、ここで降りてしまった。あとは鈴鹿までオール下道。
沼津で事故以来のプジョー沼津の前を通って1国に出たら、あとは1本道。どこまで行っても生ぬるい今夜の気温だが、それだけにオープン走行でいくら風を浴びても体が冷えることなく、浮世のしがらみはとっくに背後に飛び去って・・・今夜のお供は浜省と決めて、ずっとサーバーから流しっぱなしにしていたが、2枚目の「DOWN BY THE MAINSTREET」の「DADDY'S TOWN」の「溶けたタール、パルプの臭いの・・・」のフレーズのところでちょうど田子の浦通過、まるでタイミングを計ったような曲進行で思わずニヤリ。でも、いつもは窓を開けてなどとても走れないのに、深夜のせいかオープンで走っても鼻が曲がるような「パルプの臭い」は感じない。富士から先は信号もない超高速バイパスだ。左側に吸い込まれそうな真っ暗な海を望みながら、(自主規制)km /hで走れば、右側の東海道線EF200牽引のカモレが併走している。まさに深夜の東海道物流ゴールデンタイムだ! 思わず歓声を上げてしまう。これだから深夜の長距離ドライブはやめられない。

EF200には悪いが蒲原の先で軽くブッちきり、清水からは一直線の魔法の道、静清バイパスに突入。かつて、静岡県下の東海道下道はほとんどが有料バイパスで、全部を通って行くと結構な値段になってしまったのだが、近年すべて無料開放され、夜中で一刻を争う旅でない場合は逆にほとんど東名を使う意味がなくなってしまった。道も1車線ながら私好みのセッティングで、このルートを走るのは本当に楽しみ。もうちょっとトラックが少ないとさらに結構なのだが・・・とにかく、物流の大動脈で、昨今は高速代をケチる業者や運転手も多いので、前も後ろもトラックで、夜中だからそれなりのペースで走ってくれるのだが、排ガスが煙いし、前後をでかいのに挟まれては、その点ではあまりいい気分はしない。
しかし、いよいよ夜の闇は濃くなり、うなるカーステ、宇津ノ谷峠を駆け上がり、藤枝、島田、掛川、磐田の各バイパスをトンネルで貫き、丑三つ時近づきつつある刻、目はらんらんと冴え、まさに人車一体、休むことも忘れ疾走る307CC、ついに超高速バイパス、浜名バイパスに突入!先程とは違い、厚い雲の間からうっすらと顔を出した満月に、ほのかに照らされた海を眺めつつ新所原へ駆け上がれば、後はしばらく信号が連続する我慢の走行・・・ここで、出発以来5時間近く、刈谷まで来てやっと初めての休憩。コンビニで便所借りて飲み物買う。
大府の分岐からはこちらも超高速国道、名四国道こと国道23号線に入る。すでにラストスパート、2年前に四日市から乗った呉地方隊展示訓練以来の名四国道だが、今回はまだ暗いうちに四日市を通過、結局用賀以来屋根を一度も閉めずに0400過ぎ、東の空がほんのり明るくなる頃、11年ぶりの鈴鹿に到着。すでに一帯は今日に向けて動き出している。当然ながらサーキットの場内駐車場は満車で、空いているサーキット外の契約臨時駐車場に誘導される。一日3,000円也は相場なので仕方がない。伊勢鉄道鈴鹿サーキット稲生駅からサーキットまでの中間くらいの位置にある、昔もお世話になったことのある場所で、ここからならメインゲートまで5〜6分、早朝とはいえ当日朝にこんな近くに停められるのも昔では考えられなかったことだ。まだ暗い中で、車外で今日の支度をしていたり、すでに車を置いて歩き出しているグループなど、慌ただしい雰囲気の中、気が張っているのかあまり眠気も感じないのだが、まだそれほど暑くもないので今のうちにと2時間ほど仮眠。

ゲート開門時間の0630に起床。撮影機材をまとめて出発する。長い一日のはじまり、307CCには炎天下の下一日ゆっくり留守番していただくとして、メインゲートに向けて歩き出す。戦いの前の不気味な静けさ・・・というわけではないけれど、観客も三々五々といった感じで、閑散としている。

ゲート前のロータリーはあまり変わっていないけれど、少しずつ新しい建物があったりしているな・・・さっき歩いてきた道路の下を地下道でくぐって、サーキットの入り口ゲートでもう一度チケットを見せ、グランドスタンド裏の券売所までやってきたら長い行列が・・・え!?これがピットウオークのチケット購入行列!?
前はスタンドをずっと1コーナーの方に行った、スタンドの途切れる所に小屋があって、そこでチケットを売っていて、コースに入るのも1コーナー寄りのゲートからだったのだが、今回はトンネルをくぐって最終コーナーの内側の所から入るらしい。

以前通っていた頃にも、決勝当日朝のピットウオークには入ったことはなかった。本来予選からゆっくりマターリと楽しむのが8耐の正しいエンジョイ方法なのだが、さすがにこの歳になるとそんな暇もなく悠長なことも言ってられない・・・さて、決勝日のピットウオークはちゃんとマシン出してくれてるのだろうか。
チケットは2,000円で、伸縮する布素材のリストバンドになっていた。これを持って改めて誘導されて行列に並ぶ。う〜ん、 出遅れたか、すでに行列は前に500人位はいそうな勢い・・・20分ほど待って、予定の0730、列は動き出した。

すでに気温は上がりはじめ、朝から気だるい空気が漂う中、行列はピットレーン隣のアクセス道路を通って・・・

オオ!11年ぶりに訪れた鈴鹿のピットレーン、いいねいいね、気分盛り上がって来たね〜! 心配された品揃えも各チーム結構出してきているようだ。う〜ん、もうちょっと早くに起きれば良かったかも・・・

まあ軽くこの辺りから撮り始めて・・・と、コントロールタワーの下を見たところ、なんと!

デモ走行に参加する歴代マシンが、こちらに並べられているではないか! てっきり奥にしまわれていると思っていたので、朝イチから不肖Blueforceレッドゾーンまでヒートアップ!! すごいすごい、こんな手の届きそうな目の前で拝ませてもらえるとは思わなかった。ピットウオーク入場客も、私と同年輩と思しき人は懐かしそうに見つめる人、得意げになって同行者に説明する人などがいる一方、若い世代は「なんだかわかんね」といって早々に立ち去って行くのもいる。そうだね、一番新しい91RVF750でさえもう16年前のマシンだからね・・・その時生まれた子供が高校生ですよ。なんて、爺は昔話ばっかり・・・しかし、ロープからはみ出さんばかりに上体を乗り出して、夢中になって撮っていた私には端から見るとかなり鬼気迫るものがあったはずwwww

今回デモ走行を行うマシンは4台、まずは1980年の第3回大会優勝マシン、ウエス・クーリー/グレーム(グレアム)・クロスビー組のヨシムラGS1000R、ゼッケン12番。ここ数日で何度も紹介しているように、以前アサカワスピードでレストア前のバラバラの状態でその姿を見たことのあるマシンである。

現行の市販車であるGS1200SSのルーツであることが一目でわかるスタイリング。典型的なレプリカ世代で、ゼファー以降のネイキッドや格好だけレトロに造ったバイクが大嫌いな私が、唯一GS1200SSだけは不覚にもちょっと惹かれたのは、まさにこのGS1000Rの(スタイリングは)血を引いているからである。
当時耐久界では無敵の強さを誇り、事実「無敵艦隊」と呼ばれたホンダRCBを、78年の第1回大会でいきなり敗ったヨシムラは、続く第2回大会ではリタイアに終わったが、再びこの第3回で優勝、決してフロックではない実力を内外に見せつけた。それはホンダが、当時の24時間をマシン耐久性・レース体制・ライダーなどハード・ソフトあらゆる面から基準とする、耐久マシンの王道を行く戦略を採っていたのに対し、アメリカに拠点を持ちAMAスーパーバイクのノウハウを注ぎ込んだ準スプリントマシンとして作り上げたヨシムラとのアプローチの違いでもあり、予想していた以上の8耐の盛り上がりに、ホンダが徐々に「8耐スペシャル」とでもいうべき特化したマシンを投入してくるにつれ、ヨシムラの闘いは厳しいものになっていった。事実、この写真を撮影したちょうど12時間後に、遠い子孫であるGSX-R1000が再び優勝マシンの栄冠を勝ち取る瞬間まで、8耐の優勝カップはこのGS1000R以降27年間もヨシムラの手にならなかったのである。当時の予選タイムは2分17秒62、決勝周回数200周。この予選タイムは今年の8耐に当てはめると決勝出走70台中64位となるorz

次は1981年、第4回大会優勝マシン、マイク・ボールドウィンデビッド・アルダナ組のホンダRS1000。900ccだったRCBから1000ccにスケールアップ、ワークスはモデル名も新たに「RS」を名乗って2年目の勝利だった。

ツインカムエンジンの黎明期、当時市販車のCBがまだSOHCだった頃に純レース仕様のワークスマシンとしてDOHCヘッドが奢られた。軽量化のためか隙間だらけの簡易なカバーから覗くクラッチがレーサーのスパルタンな雰囲気を演出する。

ブレーキは今では笑ってしまうようなNISSINの2ポッドのディスク。だがホイールアクスルはさすが耐久レーサー、簡単にタイヤ交換ができるように後部をヒンジにして前方に顎のように開くクイックリリース機構を採用、これはこの後で紹介する91RVFにも受け継がれている。フロントサスはホンダ伝統のSHOWA、パイプの配管はアンチノーズダイブ機構のものか?

次は1987年、第10回大会優勝マシン、マーチン・ウイマー/ケビン・マギー組のヤマハYZF750。最初奥に引っ込んでいて撮りにくい位置にあったのだが、そんな私の気持ちを察してか前に出してきてくれた。もっともそれはこれからの走行に備えての整備のためだとすぐに悟らされることになるのだが・・・
ジャコモ・アゴスチーニ率いるマルボロヤマハレーシングに代表されるように、2ストのグランプリが主な活躍の舞台で、4スト車のレース、まして耐久などにはまったく縁のなかったヤマハ(それはとりもなおさず4ストの市販スポーツ車がなかったということである)が、盛り上がる8耐人気に乗り遅れないようにと初の大形4ストスポーツモデル、FZ750を出したのが1984年のこと。翌年には早速ホモロゲーションを取得して先日述べた通り、ケニー・ロバーツと平がタッグを組んでTECH21レーシングとして耐久レースへのチャレンジを始め、3年目にして早くも優勝を手にしたのがこのモデル。
市販車をベースにして改造範囲も限られているというのが、当時の耐久マシンのレギュレーションであるTTフォーミュラの定義*1ではあるけれど、そんなものが有名無実であるのは当時誰もが知っている公然の秘密だった。実際、ワークスは各パーツにチタンやらカーボンやらプライベーターには手も出ない高価な素材(そもそもどこにも売っていないし、ベース市販車に装着されているはずもない)を使用して、カウルなどのスタイリングも似ても似つかぬもの・・・と当時は思っていたのだが、ことこの時代のYZFは意外に市販車と共通するボディラインを持っていることに今回気がつかされた。真横から見たカウルの造形は、当時の市販車であるFZR750を確かに彷彿とさせる。シートカウルの造形は400ccながら当時TT-F3レースのベース車両として限定で発売されたFZR400RRにこれまたそっくり。そして翌年の88モデルではさらにカウルのボリュームが増した、まるでオニオコゼのようなスタイルになるのだが、これも翌年の限定車、FZR750R(OW01)にフィードバックされていく。RC30の登場までまったく市販車とレーサーのスタイリングが違っていたホンダと比べると良心的なんだか、逆にレース人気に頼った安易な商売なんだか・・・いや、「レプリカ」を標榜するのだからスタイルは似ている方が正しい姿なんだと思うが。

吸気効率を上げるため、ヤマハが先鞭を付け各社に広まったのがカウルに開けた大穴からホースでエアクリーナーボックスに外気を導くエアダクト。ヤマハはこれをFAI(Fresh Air Intake)と称していた。ここの造形も、思った以上に同時期の市販車に似ているな〜。もしかしてカウル共通? ハンドルグリップも、特に赤のキルスイッチ?辺りの造形が市販車と共通?と思わせるものが・・・同社独自の構造解析による最適解とされた、デルタボックスフレームの異常なほどの極太さが目立つ。この年のモデルのリアサスはシングルシート下の金色に輝くリザーバタンクでわかるように定番のオーリンズを使用する。

フロント回り。ディスクは軽量化のため穴開き加工され、フローティングマウントとなった。ブレーキはNISSINの4ポッド。81年のホンダRSから7年後のマシンにもかかわらず、アクスルには何の仕掛けも見られない。これではバカ正直にピットインごとにアクスルを抜いて、ホイールの位置決めをして差し直すしかないが、これはホンダのように独創的だが可動部も多く信頼性や耐久性の低い機構を嫌ってオーソドックスなメカニズムにこだわったため・・・と良く解説されてきた。しかし、もともと耐久レースは最後発のヤマハにあまりそういった工夫が見られないのは若干言い訳くさく、事実当時も今もヤマハのピット作業はホンダに比べるとかなり遅い。

最後は1991年、第14回大会優勝マシン、ワイン・ガードナー/マイケル・ドゥーハン組のホンダRVF750。84年のRS750R時代、そして94年以降のRC45ベースとなったモデルを含めると実に8耐11勝を誇る最強の4ストレーサーである。各社に例のない、ホンダ独自のカムギアトレーン90度V形4気筒エンジン、独創の片持ち式スイングアーム・プロアームなど異端ともいえるメカニズムを持つが、勝てば官軍でこれがTTフォーミュラレースにおいては80年代中盤から90年代後期までスタンダードであった。
なんとこの車だけタイヤウォーマーを前後とも装着してタイヤをせっせと暖めているが、おいガーちゃんはそんなに本気モードで走るつもりなのか? おかげでフロントにもスタンドが取り付けられて、写真を撮るとウイリー気味になって格好悪いんですけど・・・ここがまさに8耐人気の絶頂期、そしてマシンもバブルの恩恵を受けて飛躍的に性能が向上した時期で、89年のポールポジション車、ガードナー/ドゥーハン組のRVFの予選タイムが2分16秒705だったのに対し、90年のポールポジション、同じくガードナー/ドゥーハン組のRVFは2分13秒427といきなり3秒以上短縮している*2。決勝周回数は87年のウイマー/マギー組のYZFで200周を超え、88・89年で202周、ローソン/平組のYZFが勝った90年では206周、決勝で雨が降ったこの91年では192周に減ったものの、翌92年のガードナー引退試合では208周へと上がり、2006年には214周*3

ヘッドライトは航空機のタキシングライトを流用したのがルーツの100mm径の小径ライトで、パリダカワークスマシン、1989年型NXR750もこれを装着していた。もちろん軽量化がもともとの目的であるが、大径に比べるとスタイルがぐっと引き締まって見える。といっても、電車のヘッドライトと同じで、照明設備などないヨーロッパのサーキットで夜間走行をするときはこの程度のライトではほとんど路面を照らす役には立たないそうだ(90年代初めの話 今はどうか知らない)。ラスト30分程度、それも照明で照らされているコースを走る8耐と違い、ルマンなどではほとんど真っ暗な中を200km/h以上で一晩中走り回るのだが、トップ耐久ライダーになるとコーナリングクリッピングポイントも体が覚えているので、あまり路面が見えなくても不自由はしないらしい(!)

RVFのフロント周り。フロントフォークは89モデルから43mm径の倒立タイプになり、剛性の向上が図られている。RS1000以来のアクスルを抜き差ししないでホイールごと交換できるクイックリリース機構もご覧のように装備されているが、年々細かい改良が加えられて使い勝手が向上している。ブレーキはディスクが鋳鉄ながらベンチレーテッド、キャリパーはブレンボの4ポッドと、まさにザ・ホンダといった趣。ワークス体制での世界耐久参戦がほとんどなかったヤマハは別として、残り3社は特に耐久の本場、フランス法人が各社ワークス体制で戦っており、チームごとにノウハウの蓄積があるのだが、ホンダは特に新機構の開発に熱心で、エアで一発作動して一瞬で車体を持ち上げ前後のタイヤ交換ができるジャッキを作ってこのマシンにも使用していた。上のサイドの写真で「OKI」のスポンサーロゴの「K」の部分の下、カウルのスリット部分に円形の穴のようなものが見えるが、反対側は漏斗状になっており、そこにジャッキの棒を突っ込んで「プシュッ!」と上げられるようになっているのである。また、前年のエースチーム・ゼッケン11番のリタイアの原因となったガス欠防止用に左右に設けられたリザーブタンク切換コック(右サイドは上の写真、タンクとシートカウルの境目部分の切り欠き部に見える)や、ガソリン残量が目視で確認できるフィラーキャップの透明窓など、問題点を即座に改良してくるシステマチックな体制も、大ワークスチーム病に陥らず理想的な開発体制を窺わせる。HRCは伊達に王者に君臨しているわけではなく、努力と創意工夫が結果を呼び込むのである。

*1:TTとはTourist Trophy―すなわち市販マシンによる優勝杯という意味である

*2:最高予選タイムは2002年・25回大会のアレッサンドロ・バロス/武田雄一組による2分6秒577

*3:最高周回数は2002年・25回大会の加藤大治郎コーリン・エドワーズ組による219周