平快乗りたや

Taiwan railway type SPK32600 PC

もう4月にもなるのに正月の話題から入って恐縮だが,今年の年賀状に「平快乗りに行こうや」と書いてきた輩がおって、ちょっとムラムラし始めたのである(あんたムラムラしてばっかでんな〜)
平快とは台湾国鉄に生き残るいわゆる旧形客車のこと。日本では民営化の直前、1980年代半ばに一般営業用としては姿を消してしまった存在だが、台湾ではまだ現役で、非冷房・手動ドアの車両も残っており、もともとがハード・ソフトともに日本のシステムそのままで作られただけに、かつての日本の旧客の旅が21世紀の今味わえるとあって一部では人気なのである。
生まれも育ちも東京の人間としては、世代もギリギリで、旧客が日常生活で乗れる環境にあったわけではない。そんな私が体験したことがあるのは、唯一最後まで上野に入ってきていた常磐線は仙台・平までの3往復。中学時代、水曜は学校が終わるのが早いので、それから駆けつけると1513発の425レに間に合い、松戸で上りと離合するので、往復小1時間手軽に楽しめるのである(昼過ぎの223レだと高浜往復が楽しめた あと、高崎線にもゴハチの牽く2321レがあったが、こちらは早朝のこともあり乗る機会はなかった)。この手のが好きな友人と「今日旧客行く?」となると、チャイムが鳴るが早いか家に走り、チャリで市ヶ谷まで必死に漕いだものである。上野は確か17番線で、EF80が推進で入ってくるのを停止標の横で食い入るように見ていた。まだほんのひと昔のような気がするが、ドアが開いて、良くステップの部分に座り、流れてゆくバラストを見ていたことなんて、今ではとても考えられない。JR各社で動態保存されている車両は、すべて走行中はロックができるように改造されてしまっているのだ(子供ゆえ、実はもっとアクロバティックなこともやっていたけど、もちろんここでは触れません)。
その後、大人になって東北辺りをぶらついていた頃は、客車はあれども当然50系になってしまっていて(それでも今にしてみればまだ贅沢な話)、存分に味わい尽くしたというほどには至らないので、2002年の暮れ、タイムスリップ気分が味わえると評判の台湾に渡ったのである。
そんな台湾も、日本の技術援助による新幹線の建設も進み、日本で言えば東海道に相当する島の西側、台北(正確には基隆)―高雄間を結ぶ西部幹線ではあからさまなボロ客車の姿はもはや見られず、残ったのは宜蘭―花蓮を結ぶ東部幹線。こちらはまるで親不知を行くような険しい山が海に迫り、トンネルまたトンネルの魅力的な車窓で、台北ベースの日帰り旅行ながら乗車時間実に5時間弱と、この四半世紀分のうっぷんを晴らすには充分である(いや、本当はまだまだ足りない!?)
前後2日のそれぞれ半日が土産物屋巡りでつぶされてしまい、初日夜は同行の一同で酒宴を催したゆえ、寝付くのも遅かったのだが、2日目は5時前起き。こういう時こそ早起きは屁でもない。ホテルは駅からはちょっとあるので、まだ暗い中タクシーで台北駅へ向かう。人っ子一人いない、ガランとした広大な駅で切符を買い、当駅0548発の樹林から来る花蓮行き157次の到着を待つ。やって来たのは青いながら近代的な地下駅には不釣り合いな、もう日本で見られなくなったので代用品、というにはあまりにハマリ過ぎている、まぎれもない旧客であった。
最後部デッキでオープンの展望を味わうべく、我々が陣取ったのは小窓・背ずり転換クロスで往年のスハ44の雰囲気を漂わせるSPK32600形。なるほど、車内に入ってみればシートの造りはまるで違い、モケットでなくビニールレザーだったりするのだが、そんなことはもうどうでも良くなっている。これはスハ43だスハ43だスハ43だ・・・いや、そんなこと念じなくても、TGVでもICEでもオリエント急行でもない、ここ台湾で遠い記憶を思い起こさせてくれる素晴らしい列車がまだ残っていたことに感謝しようではないか・・・
列車は轟音を立てて箱型断面の地下線を走って行く、地上に上がった松山は手動のロープ式踏切が残っており、本当にふた昔の赤羽辺りの雰囲気を漂わせている。八堵までは近郊区間ロングシートの電車とすれ違い、高架化や配線改良工事が至るところで進められている。
台北は西部幹線の中間点なので、同線の起点、基隆まで1駅のところで分岐する八堵からが宜蘭線となる。ここからは急に人家は少なくなり、最近台湾の鉄の間でも人気が高い平渓線が分岐する三貂嶺までの山越え、その後は太平洋をちらちら見つつの旅となる。3時間足らずで蘇澳新站に到着、ここから花蓮までは北廻線となる。そして、ここがまさに超絶車窓の、まさに台鉄旧客の旅白眉の区間となるのである。
現在でも道路が整備されていないという峨々たる山容の下をトンネルまたトンネルで抜け、台鉄最長の観音山隧道では中央の信号場でバカ停、真っ暗闇の中でたっぷりとディーゼルの排気をかがされ、人家とてない猫の額のような場所にポツンとある駅、すれ違うのは貨物列車、突然現れる巨大なセメントプラント・・・夢のような5時間はあっという間に過ぎ、1035、花蓮に到着した。結局、客室内には数回、同行者と一言二言交わすために入っただけ、一度も座っていない。
事前の勉強が足りなかったので全然知らなかったのだが、花蓮基地の進入コースがホームの真上のため、200mを切る位の高度でアプローチして行く経国やF-16の爆音が飛び交う駅を後にして、繁華街に出、水餃子を食って、帰りは適当な列車がないために1549発の自強号1056次で帰路に就いた。こちらも指定席には一度も座らず、運転台に乱入しては「我日本人、愛鐵路」とか適当なことを言って貫通扉に陣取り、3時間強かぶりつき大会。客レでは前面展望は望めないので、これはこれで楽しめたが、花蓮からはすでに架線柱が建植されており、電化が近いことを伺わせた。単線の難所、観音山隧道付近の路線も電化に合わせての複線化が進められており、単線並列で線増の部分もあれば線形改良も含めて完全新線になってしまう所もあるようだ。電化してしまえば、普通列車台北からロングシートの電車が直接入線してくるだろう。これがのどかな東部幹線を味わう最後のチャンスだったのかもしれない、神様が呼んだのか、いいタイミングで来たもんだと、連れてきてもらった各方面に感謝の旅であった。
そして、東部幹線は2003年7月に花蓮まで電化が完成し、2005年1月のダイヤ改正では旧客列車が大幅削減となってしまった。すでに台北に乗り入れる旧客列車はなく、東部幹線では宜蘭―花蓮に3往復が残るのみとなってしまったそうである。旧客はさらに南に追いつめられ、花東線花蓮―台東間に1往復、南廻線台東―枋寮間に2往復、そして最後の楽園と言われる屏東線高雄―枋寮間には数多くの列車が残されていたが、最新の情報では大量の冷房付き車両の投入により(西部幹線への新形車両投入による玉突き転配)、風前の灯火とのことである。
完全乗り鉄旅行ゆえ、走行シ−ンが1枚もないが、今にして思えば、和平辺りの山が迫る南海ムード、三貂嶺の山越えもいいけれど、猥雑な台北の市街とからめて、そう、松山の踏切を走る平快の姿なんか、ぜひ1枚位は残しておきたかったなあ・・・