下山事件の現場を訪ねる

JR East Japan Tabata depo

本日は午前中某ポイントにて某艦のお見送りをした後、取って返して午後は某所でこんなものの撮影。

話は前後するが、先日青森に行った際、どうにも我慢がならず弘前紀伊国屋で「下山事件 最後の証言」を購入。

下山事件―最後の証言

下山事件―最後の証言

岩木山の麓のペンションで、全くリゾートライフに似合わない本を貪り読んでおったのだが、本日目の前を何度も往復するこの黒い巨大な物体を見ているうち、ああ、これに轢かれたら人間誰しもバラバラや・・・と鬱に。今じゃ子供達には随一の人気者なのに、よりによってデゴイチはあまりにタイムリー過ぎる。普段あまり見つけないもので、あのマッシブ感!がシュポシュポ疾走してくるのを目の当たりにして、もう夢に出てきそう・・・

私もカバーするジャンルが第7艦隊並に広範囲に渡るので、ローテーションですっかりお留守になっている方面もあるのだが、久しぶりに黒い霧&怪事件のフィールドに舞い戻って来て、なにかこう、体の底から沸々とわき上がってくるのを感じる。というわけで、フィールドワークに出かけることに。

前回このネタで日記を書いたとき、いつも謀略戦の近くにいると綴ったが、下山事件に限っても総裁が最後の晩の一時を過ごした場所をはじめ、失踪の日の足取りに登場する各ポイントはほとんどがかつての職場の周囲に重なる。そして、当時の国鉄労働運動の一大拠点、事件にも関連していくつかの不可解な事象が報告されている田端操車場一帯も例外ではない。
田端操車場は下山事件において、失踪した丸の内・三越周辺、遺体の発見された五反野の一帯と並んで事件の重要な舞台のひとつである。総裁を轢断したD51 651牽引の869レが出発した場所であり、同列車に対する(ヘッドライトの電源となる)発電器の破壊、ボイラーの不昇騰など遅れさせるための工作と疑われる動き、詰所の鍵を壊してかけられた「下山総裁が自動車事故で死んだ」という謎の鉄道電話、乗務員が寝過ごした(雑務手、あるいは機関士本人が将棋に夢中になっていて起こし忘れたという)原因の確認を困難にさせた宿直簿の該当部分の破り捨てなど、数々の謎を生んだ拠点である。一つ隣の日暮里(当時 現在は西日暮里駅が開業したため2つ隣の駅になった)では、まだ総裁の死体発見のニュースがラジオで流れたばかりの早朝に、トイレに「5.19下山罐」という謎の落書きも発見されている。

カーナビで見ればこのとおり、画面いっぱいに線路が。ここは敷地の真ん中を南北に走る道路で、田端駅から上中里、王子の駅に通じている。私は最低月2回はこの道を通っている。いつもはそんなことは忘れてしまっているが、ここでも謀略戦の影が私に寄り添っている・・・
鉄道貨物輸送の変遷について、当日記で詳細を解説するのは難しいのだが、かつて日本の鉄道貨物輸送は、各駅から行き先もバラバラな貨車をアトランダムに連結し、大規模な操車場で行き先別に編成の組み替えを行うヤード方式を取っていた。しかし、これでは編成の組み替えに時間がかかり過ぎ、国鉄末期にはすでに自動車輸送に対して競争力を失っていた。民営化時は真剣に鉄道貨物輸送の全廃が検討されたが、その後コンテナ輸送化の推進、同じ行き先の貨車を固定編成的に運用し、操車場での入換をなくす直行輸送方式への転換により、現在でもJR貨物により鉄道での貨物輸送が続けられているのはご存じの通り。とうわけで、新鶴見操車場と並んで首都圏で有数の規模を誇った田端操車場は国鉄末期に廃止され、その跡地の大部分は東北・上越新幹線の上野新幹線第一運転所(当時)となった。

一大車両基地である田端・尾久一帯は、真ん中の道路をはさんで東側が旅客車両の基地であるJR東日本尾久車両センター(旧尾久客車区)、西側がかつての操車場であるJR東日本東京新幹線車両センター(旧上野新幹線第一運転所)となるが、敷地の核となる中央部には道路の両側にJR東日本田端運転所が所在する。基本的に道路の東側が「カシオペア」「北斗星」などの寝台特急をはじめとした同区所属の旅客列車用機関車が留置される東部仕業線、西側がJR貨物所属の機関車が集う南部機留線となる。かつては(もちろん下山事件当時も)田端機関区と呼ばれたが、民営化直前に現在の名称である田端運転所に改称され、旅客会社の車両基地となったため、JR貨物の車両配置はなく、南部機留線に停まっているのはほとんどがJR貨物新鶴見機関区所属の車両。南部機留6番線の写真のEF65 1137も新鶴見機関区のカマである。後方に見えるのは仕業検査庫。
田端で事件のことも忘れ、単なる鉄っちゃんと化して写真を撮りまくった後は、いよいよ五反野の下山総裁轢断現場に向かう。田端の駅まで戻り、町屋で都電と京成を横切り金八先生の舞台でもある荒川の河川敷に出、小菅の駅前に来た。さて、駐車場・・・と思い、路地に入ったら、前方に巨大な建物が。そう、東京拘置所である。
うわ〜、すごい所に入っちまった・・・そこは正門の脇、面会者の通用口に通じる路地だった。「この先四輪車通行不可」と書かれているため、引き返すが、その銀色に光る建物の威圧感がかなり怖い・・・すでに面会時間は終わっているため、門は閉ざされ、テレビで見たことのある差し入れ屋も閉店していた。本当に「差し入れ店」っていうんだ〜。門の周囲に掲げられた面会者への注意事項、「撮影禁止」のプレートなどが、澄んだ秋の青空に映えてとても怖い。しかし、この路地に入ってきたオープンカーって、多分歴史上初めてなのではなかろうか。あまりに似合わない取り合わせに、ちょっと眩暈が。

下山事件当時は一面の畑だったらしいが、現在は当然のことながら建て込んだ住宅街で、特に車で訪問するような施設があるわけでもなく、駐車場を探すのに大変難儀したが、なんとか空いているコインパーキングを発見。ただ、迷路のような所であるから、帰りに迷子にならないかどうか心配・・・ここまで全然散歩ができていないふうこを連れて現場の方向に歩き出す。
後にしてみたら、このパーキングは事件当日総裁が休憩に訪れたという証言があった末広旅館に至近の位置にあった。ということは、すでに東武五反野駅にも近い場所まで来てしまっている。ここから歩くこと1kmほど、目指す場所はどちらも高架となっている東武伊勢崎線常磐線*1が交差する位置にあるので、迷うことはない。
途中、コンビニの自動販売機で供え物のタバコを買う。今までも折に触れて本を夢中になって読んだことはあるが、現場まで来る気になったのは今回が初めてなのだ。この、下山平成三部作というらしいが、新解釈も盛り込まれている「亜細亜産業」が登場する一連のシリーズは、それほど読む者を夢中にさせた。しかし、私の日記では慰霊碑巡りはすっかり定番となってしまっているものの、題材が題材だけに面白半分で訪れるのもどうかと・・・その後ろめたさを紛らわすためでもないけれど、一説には壮絶な拷問を受けたといわれる下山総裁へのせめてもの気持ちとして、1箱買っていくことにしたのだ。私はタバコを吸わない。それどころか、狂信的なタバコ嫌いである。日頃他人の煙に悩まされて、こんなもの今日にでもこの世からなくなってしまえばいいのに・・・と思っている私が、タバコを買うことになろうとは。子供の頃、おじいちゃんのお使いで買いに行っていた頃以来の行動で、何か妙な気持ちになる。だが、無類のヘビースモーカーであったという総裁への供え物には、これ以上のものはないだろう。銘柄は迷ったが、軽いのでは物足りないだろうと思い、セブンスターを選んだ(いや、セブンスターが重いのかどうか知らないが、ライトでない奴を、と)。

下山国鉄総裁追憶碑は、下山の跡を継いで2代目総裁となった加賀山之雄(事件当時副総裁)の揮毫によるもの。当初は実際の轢断現場(これ、冷静に考えてみるとすごい字面だな〜)である東武線との交差地点に建立されたが、後に複々線化されたため現在は150mほど水戸方に移動されている。ここは当時地平線で弥五郎新田踏切(通称五反野踏切)と言われた踏切があり、地元住民の目撃証言が複数寄せられた地点。その後、常磐快速線が建設され複々線となり、両方とも高架線となったためにガードになった。交差する道に沿って小川が流れており*2この碑の反対側サイドは親水公園となっている。
持参したタバコを碑に備え、手を合わせた。今日、ここに私が来たのも何かの巡り合わせだろう。多少なりとも鉄道に縁があって生きてきました、総裁、今日本の鉄道は多分あなたが当時想像もできなかっただろう程に発展しています(趣味的にはどうだかわかりませんが)、安らかにお眠り下さい・・・皮肉屋気取りのこの私が、真剣に、長い間手を合わせた。

実際の轢断現場はこちらになる。下が常磐線で、手前の快速線415系の中電がかなりの速度で駆け抜けてゆく。上の東武伊勢崎線と交差したすぐ先が荒川橋梁、当時東武線は盛土の構造になっており、常磐線は荒川橋梁から下りながら緩い右カーブとなっており、非常に見通しが悪く戦前は自殺が多発した場所だという。現在は上も下も複々線となり高架橋の構造に、また常磐線の手前にはつくばエクスプレスのトンネルが建設され(潜って行く四角いコンクリートの箱状構造物)、ここ数年でもさらに風景が一変したらしい。
快速線を、651系の「スーパーひたち」が行く。考えてみたら、総裁を轢断したD51の番号も651、一部ではこれが「むごい」に通じる忌み番なのでは、などという解釈もみられるが、JR東日本のトップを飾った常磐線のエース特急車両が同じ数字とは、単なる偶然なのだろうか・・・どうもふうこの歩みが引っかかる。水っ端が嫌いなふうこのこと、親水公園のような所に来るといつも歩みがのろくなるのだが、碑の所まで戻ってきて、もう一度手を合わせようと近づいたところ、何か近づきたくない様子で全身で踏ん張っている。ま、小川の流れのせいだと思うが・・・多分ね・・・多分ね・・・
閑静な住宅街なので、あまりカメラを抱えてうろうろするのも憚られ、ほどほどにして引き上げることにした。すると、この地点は本当に小菅の拘置所に隣り合っているのを再認識。こちらの心理状態もただでさえ平常ではないところに、その建物の形状はかなりヘビー。鉄格子のある面はまだいい。あの、アルミパネルがガチャガチャにはめこまれたような垂直な壁面は何? ここではあえてPhotoは載せないが、あまりに「死」を意識させられた一日でした。私も決して面白半分で行ったわけではないですが、マジで物見遊山はやめておいた方がいいです(誰もこんな事に関心はないとは思いますが)。感受性が鋭いとか優れているとか、そういう自慢をするわけではないですが、何かチャンネルが合っちゃったんでしょうね。

*1:当時は常磐線は地平

*2:この小川は遠く離れた末広旅館前から流れてきているもの 現在は旧末広旅館前の部分は川ではなくなってしまっているが、当時ここに総裁を入れていたと見られる黒いゴム袋が捨てられているのが発見された しかし、重要な物証となるはずのこの袋はなぜか回収されず、何者かが持ち去ってしまったという