茨交旧国鉄旧車會とアンコウ鍋ツア〜!

Ibaraki Kotsu type kiha222 DMU

平日に遊んでうまい物食おうシリ〜ズ!
というわけで、茨城県は阿字ヶ浦に今が季節のアンコウ鍋を食いに行って来ました。

1000上野発のスーパーひたち15号で1時間、下山総裁轢断現場を通って勝田駅に降り立った。ここからは茨城交通湊線で終点阿字ヶ浦に向かう。今となっては貴重な旧国鉄形の気動車が残る同線、古い車両に当たるかと期待していたのだが、ホームに停まっていたのは新しい3710形・・・・ガクー。ちなみ何百両も車両を保有しているわけでもない同社になんで3710などというデカくかつ半端な形式名があるのかというと、湊線にちなんで「3710=ミナト」のゴロを踏んでいるのである。届け出の時運輸省(当時)の担当者にどんな顔して説明したのだろうか。まあその後も土佐くろしおの9640形とかいろいろあるが・・・

まあ気を取り直して単行の列車に乗る。乗車率は座席が8割方埋まっている感じ、平日データイムとしては予想より乗っている方かな? 全長14.3kmの小私鉄、全線乗っても30分足らずで、ほぼ中間に車両基地、湊機関区が所在する最大の拠点駅、那珂湊駅がある。

日中はここで上りと下りが交換するダイヤになっているのだが、なんと上りは旧国鉄標準色(しかも旧色)のキハ222! キショ〜これが来やがったか! でもいいもんね、どうせ後でこれに乗れるんだし・・・しかし、これが21世紀の風景とはにわかに信じ難い。

実は今回のツアー、アンコウ鍋と並んでのメインイベントが当駅での小撮影大会。もちろん許可を得て、機関区の留置車両を撮りまくる。実はこっちの方がアンコウより楽しみだったりして・・・

キハ222に負けず劣らずの魅力的な姿を見せるのは旧国鉄標準色(新色・・・ややこし〜な〜)のキハ205。もとをたどれば1965年帝国車輌製の国鉄キハ20 522だが、その後水島臨海鉄道キハ210を経て1996年に入腺した、同線では比較的新顎。先代のキハ11が90年代半ばからリバイバルの旧国鉄色を身にまとってマニアから熱狂的な支持を集め、後にJRを含めて各社が追随する事態となったが、先鞭をつけた同社の旧国鉄気動車はさらに進化、キハ222の青・クリームの旧旧国鉄標準色や下に紹介するキハ2004の旧国鉄準急色など続々とバリエーションを増やしている。バス窓が魅力的な初代リバイバル車両、キハ11はすでに廃車されてしまったが、当車がベーシックな赤・クリームの(新)旧国鉄標準色を引き継いで現役で活躍している。「ワンマン」表示とブタ鼻シールドビーム2灯が惜しいが、現代に残っているだけで奇跡!

こちらは3701形01と並んで庫内に入っていたキハ2004。前身は1966年新潟鉄工製の留萌鉄道キハ2004で、同鉄道営業休止後の1970年5月に転入して以来使用されている。同車はキハ26/55形が当初身にまとっていた旧国鉄準急気動車色。もちろん、一般形気動車キハ20系列の寒冷地バージョンであるキハ22(当車は厳密に言えば国鉄車両ではないが、同一仕様で設計されているので同一グループに分類しても問題ないと思われる)に塗るのは厳密に言えば考証ミスであり、オシアナの展示機のマーキングが超いい加減!などと書いている立場では怒らなければならないところではあるが、デッキつきで側扉が車端に寄っており、パッと見に違和感があまりないのが憎いネ〜。もっとも庫を出てしまうと両運転台なのがバレてしまって超違和感出まくりだろうが・・・

ホームには現在同線唯一の機関車となってしまった1957年新潟鉄工製のロッド式ディーゼル機関車、ケキ102が留置されている。かつては夏の海水浴シーズンに国鉄からの直通列車も運転され、客車牽引にも活躍したが現在はまったく動いている様子はない。同車の勝田方には旧東武鉄道のホッパ車、ホキ7と8が連結されているが、この貨車なんと車籍を取らなかったそうで、今でも妻に「東武鉄道」の銘板と側面の表記がそのまま。

時が止まったようないい感じの田舎駅、那珂湊は駅舎横にこんなものが健在。なんかこの造形、南筑軌道のいわゆる「オバQ機関車」に似てますね。しかしこの一帯、百里が至近でイーグルと思わしき爆音がひっ切り間なしになり響いており、機関区で鉄をやっていてもつい空に目が行ってしまうが、本日も雲が低く垂れ込めていてその姿を見ることはできず。

撮影会を終えて終点阿字ヶ浦に向かう。先程キハ222を見てもそれほど悔しくなかったのは、どうせ勝田で折り返して同車に乗れるのがわかっていたから。いや、この光景、マジで21世紀になってもう6年経つとは思えねえな〜。キハ222はその出自を彷彿とさせる旋回窓が現在も健在で、これがまた魅力的。

デッキは撤去され、両車端はロングシート化、寒冷地仕様の最大の特徴である二重窓も撤去されてはいるが、デコラ・モケットともオリジナル色のまま、木の床や糸を織った網棚などあまりの素晴らしさに卒倒しそうなキハ222の車内。同車はもとをたどれば1962年富士重工業製の羽幌炭礦鉄道キハ222で、同鉄道の廃止に伴い1971年4月に入線した。

国鉄一般形気動車の特徴、中央部分の煙突分の寸法を取った背もたれも懐かしい。

終点、阿字ヶ浦に到着〜。降りたのは我々のグループの他は2〜3人。

客待ちのタクシー1台いない寂しい駅前。昔は夏場海水浴客で賑わったらしいが・・・なんたって上野から直通の臨時が満員で来た位である。ホームもかつての栄華を偲ばせる有効長6両分が取られている。駅舎の奥に見える留置車両はこちらも元羽幌炭礦鉄道のキハ221と、奥に元鹿島臨海鉄道キハ2002(←国鉄キハ20 421)のキハ201。どちらも海水浴客の更衣室として使用されていたものだが、すでにボロボロに朽ち果てている。

駅の脇を線路が途切れた先にさらに歩いて行くと、200mほどで海岸に出る。人気のない住宅が点在するこの一帯にアンコウ鍋を食べさせる民宿が点在しており、その一軒に予約を入れてあったのだが、なんかこの宿、石屋さんでもないのにやたらと石細工が点在しており、玄関の靴箱のところにある靴ベラ立て、長靴の造形だったがこれも石造りだったのにびっくり。

幹事ではないので、今回の宴会費がいくらなのかは不明。部屋に入るとすでに配膳は終わっており、鍋に火が入ったところ。これ以外にも刺身やら茶碗蒸しやらフライやらサンマと大根の煮付けやらものすごい量で、鍋が煮立つまでにまずそちらを片づけないと・・・

え〜、鍋が煮立つまでに腹一杯になっちゃいましたorz こんなに食えるか! 腹を膨らませないように酒は押さえ気味に行ったのだが・・・この後、おひつにご飯が山盛りで届けられて、お約束の雑炊にするのだが、とても食えたものではない。年寄りだったら半分以上残してしまうのではないのだろうか。う〜ん、朝鮮式のもてなしですな〜。
アンコウというのは、身は溶けてほどんど原形を留めないものゆえ、肝をほぐしてスープにしてその濃厚な味わいを楽しむのだが、これが最初の空腹時に来たらさぞやうまいだろうなあ、と。ならばサイドメニューは一口もつけずに待っていればいいのだが、なかなか貧乏性なものですから・・・宿泊抜きで平日昼間から宴会を催している団体は他にはいなかったようだが、帰る頃になって夫婦でチェックインしてくる人がいた。今の季節は結構繁盛しているんだろうか。

腹一杯になって動けなくなってしまったが、2時間ほどで宴会もお開きとなり帰路に就く。なんとか立ち上がって阿字ヶ浦の駅に・・・ここで各自好みのコースでバラバラに帰ることとなり、好き者軍団はそのまま帰るのももったいないと、那珂湊まで戻ってここからタクシーで鹿島臨海鉄道大洗駅へ、同線で新鉾田に出て鹿島鉄道の鉾田まで歩くという暴挙?に出た。鹿島臨海鉄道はちょうど下校時刻に当たり2連の列車は思わぬ女子高生地獄(天国?)、20分ほどで新鉾田に到着し女子高生と共にホームに吐き出された。函館本線滝川と札沼線新十津川のような関係の鉾田と新鉾田、両駅の距離は1.5kmほどで十分歩けるが、日もとっぷりと暮れて、こちらもご多分に漏れず人気のない田舎道をトボトボ歩く一団はかなり場違いであったろう。1741発の石岡行きは学校帰りの高校生を主体に、我々を含め10人ほどの乗客。

茨城交通の倍近い27.2kmの路線延長を持つ鹿島鉄道、全線を乗り通すとなんと55分!もかかる。しかし、現在の主力、KR500形(ライムグリーンに塗られてそう・・・コーク・バリントンを思い出しますな〜)はかぶりつきには最高の前面窓に貼りつくことができる構造で、同行メンバーが後で寝入ってしまう中、1人で張り切って全線かぶりついてしまった。その反動で常磐線ではほとんど寝ていたが・・・鹿島鉄道は来年が正念場、いつも百里航空祭には車で来てしまうので乗ったのは今回が初めてとなるが、次にもう1度乗れる日が来るのだろうか。
石岡で15分ほどの待ち時間の後、ここから特急でもあるまいということで普通に乗って上野まで帰ってきたが、期待した415基本番代のクロス車は来たことは来たのだが、ほとんど満員で座れないので、最後尾の1500番代に。久しぶりの面白乗り物旅行はわびしくロング車で締めくくりとなった。しかし、こういう魅力的なローカル線の旅をもっと楽しみたいなと思いつつも、なかなかドライブに出かけてしまったりで機会がないのだが、茨城交通の旧車群には本当にマイッた! 鹿島鉄道も通常は運用に入らないが、キハ600形やキハ430形、キハ714形などの魅力的な旧車が現役で、どちらもこれならばわざわざ東京から乗りに来ても損はない。なんとかまた再訪したいものだと考えております。