雪の大糸線キハ52撮影行

Blueforce2008-01-26

なんと2日連続の「鉄のロード」!米沢から帰った私は、ターンアラウンド2時間弱で再び家を出ることになった。
2300過ぎ、身を切るような寒さの中、ふうこ号でまず向かう先は「東京湾フェリーで空母を撮る会」の会員でもあるごつさん家。0000には着くから・・・と連絡していたのだが、どう考えても間に合うはずもなく、普段は絶対にそんなことをしないのに池尻から首都高に乗る。金曜の夜の下り線は空いており、tamo太郎さんからの良からぬ謀議の電話(うちはハンズフリー電話ですので、違反ではありませんので悪しからず)で盛り上がっているうちにあっという間に横浜インター着。30分遅れでごつさん家到着。
ここでごつさん所有が所有する307CCとは別のもう1台の車、ランクル80に横付けし、撮影機材一式をリアシートにどんどん投げ込んで行く。こういう時、人が乗るだけでも難儀することもある307CCに比べて、本当に大きい車が羨ましくなる・・・何も考えずに放り込めばいいのだから(もっとも、そのせいで帰宅時に結構忘れ物を出してしまったが)。
ランクルの駐車スペースにふうこ号を収めたら、0300出発!国道16号を八王子へ向かう。本日の目的地は糸魚川。昨年11月、さんざん岩泉に行く山田線に行くと言っておきながら、結局口だけに終わりJR東日本盛岡支社のキハ52・58ラストを逃してしまったリターンマッチなのである。そこに最近鉄づいているごつさんが乗り、ランクルを出してもらえることになった。307CCと2台所有しているごつ家ではランクルは長らく車検切れで放置されていたらしいのだが、この大糸線行のために車検を通したというほどの気合いの入れようだwwww
私が30分遅れてしまったのと、若干のトラブルが重なって、本来乗り鉄も兼ねて朝イチのひと山を往復してこよう、そのためには0613発の418Dに間に合うように糸魚川に着かなければならないのだが、ちょっと無理かな・・・双葉SAで運転を交代、豊科で高速を降りて国道147号を北上する。白馬の手前で若干雪道になり、先日かつて四駆でかなり無茶をやったと武勇伝を書いた私ではあったが、いきなり雪道のランクルはちょっとまずそうなので(ミッションが入りにくいんですよ、これマニュアルなもんで・・・)再びごつさんに交代、無理に糸魚川に着こうと思わずに安全第一、なんなら途中の駅から乗ればいいのだから、と走っていたら、0600前に着いてしまいました・・・

ところが、空はまだ真っ暗な中、人もなく静まりかえっているだろうと思っていた糸魚川駅は、待合室に超満員の若者が溢れ活気に満ちていた。なんだこりゃ!? 皆スキーの板やバッグを持っており、どうやら我々と一緒に大糸線に乗るらしいが・・・

向かい側の大糸線ホームに停まるのは、リバイバルで復刻された首都圏色(俗称タラコ色)をまとったキハ52 156と、我々の乗る418D―420Dと南小谷返しの423Dに充当されるこちらもリバイバルの旧国鉄色キハ52 115。現在の大糸線は通常一日2運用ですべて単行運転のため、本日動く車両はこの2両のみとなる。

改札が始まり、跨線橋を渡ってホームに急ぐ。といっても、どうせかぶりつくので座席を確保したいわけではないが・・・荷物を車内に放り込んだら、早速ごつさんと外観を撮りまくる。キハ52 115は大糸線リバイバルカラーのトップを切り2004(平成16)年8月にクリーム4号・朱色4号の赤白ツートン、いわゆる国鉄色に塗り替えられた。

1912(大正元)年完成の歴史ある煉瓦車庫には、本日はお休みの初期国鉄色キハ52 125が停車中。凍て付く夜明け前の一時・・・
結局、列車はボックスがすべて埋まった、一日数往復しかないローカル線の一番列車とは思えない盛況で出発した。これは一体なんで?白馬でスキーするのに糸魚川に泊まるのか?と不思議だったのだが、全員の関西弁で気がついた。あ。「きたぐに」だ。
大阪―新潟間の583系夜行急行「きたぐに」。これで早朝も早朝、まだ真っ暗な時間に糸魚川で降りて、待合室で一番列車を待ってはるばる白馬まで行くのだ。夜行寝台列車の全滅も目前に迫っているというのに、2008年の今日にこれだけ列車に乗ってスキーに行く若者がいるとは・・・おじさんちょっと感動し、心強く思ったのでした。もっとも、これがどれだけ大糸線の未来に資するかはわからないけれども・・・

定刻0613に出発。まだまだ夜明けには遠く、ヘッドライトが照らす列車が進む先には、レールの線がまったく見えない。すっかり雪に埋もれているのだ。こりゃ登り坂で相当走行抵抗も大きいに違いない。まさか、おとといの米坂線のように吹き溜まりに突っ込むような事態に!?

と思ったら、交換設備のある根知ではなんとラッセルのDD16 304が待っていた。定期のスジなのかな?夜中に1往復除雪列車が走るほどの降りなのだろう。DD16は今となっては基本番代1両と、除雪用のラッセルヘッドを取り付けられるように改造された300番代4両だけが残る簡易線用DL。というわけで、ここからはレールが雪の中にしっかり道筋をつけている。

平岩で12分停車。ここで列番が418Dから420Dに変わるが、もちろん車両交換などはなくそのまま乗った状態で通し乗車ができる。やっと夜も明けてきて、しんと静まりかえった山間の駅でDMH17Hのカラカラいうアイドリング音だけが響く中、我々をはじめ鉄ちゃんどもは周囲を右往左往・・・それも、明らかに列車には乗っていなかった顔ぶれ・人数だ。車で来て待っていたのである。
かつては島式ホーム1面2線で交換設備のあった平岩は、近年反対側ホームの線路は閉鎖となり棒線駅となってしまい、現在南小谷糸魚川間で交換が可能なのは根知だけとなっている。つまり、全長35.3kmの中に在線できるのは上下各1本のみとなる。ほんの数年・・・いやもう10年以上前か、シュプール号が行き交ったスキーブームも今は遠く、臨時列車など望むべくもないための設備撤去である。

途中平岩のバカ停で列番の変わった420Dは、定刻0725に南小谷に到着した。我々を除く全員がホーム向かい側のE127系による松本行き324Mに乗り移る。5分の接続で発車だが、こちらは25分ほどの待ち時間、一度駅舎へ待避する。

南小谷JR東日本と西日本の分界駅。大糸線の電化・非電化のセクションでもあり、同線はここを境目に、信濃鉄道により建設され地方電化私鉄のカラーを色濃く残し、新宿から振子式特急電車が直通する南線と、まだ開通50周年と歴史も浅く、いかにも国鉄後期の意地になって造った赤字非電化ローカル線といった趣の北線という、まったく別の路線と言ってもいいほどの性格の異なりを見せる。初めて「スーパーあずさ」に乗って南小谷に着いた、鉄道や旅に余り詳しくない人は(そんな人は南小谷や大糸北線には用事はないだろうが)あまりの中途半端さにびっくりするだろう。周囲に何もない、山間の辺鄙な駅だからだ。なぜこの駅がJR東日本と西日本の境なのか。熱海や米原ならばまだ納得は行くのだが・・・それは、国鉄時代にここが長野鉄道管理局と金沢鉄道管理局の分界駅であったことによる。管理局というのは国鉄にとっては一つの国のようなものであったので、分割・民営化の際にもその行政区画はそのまま継承され、今でも各社においてそのまま支社としてその形を保っている。同様の例は高山本線の猪谷にも見られる。通学需要などがほとんどないため、旅客流動が極端に少ない県境越えの区間で、完成時期が大幅に遅れたために生じた歴史的経緯の産物なわけである。
もっとも、駅自体の所有はJR東日本。分界点は駅中心ではなく、ここからさらに北に数百m行ったところ(下の写真の遠方信号機がある辺り)になる。そのため、駅の表示類のデザインやテイストはJR東日本風になっている。

南小谷駅舎内の待合室にはなんと!座敷とこたつが設けられていた。手前の椅子の部分にもストーブが明々と燃えているので、お飾りだろうと思ったら、布団の中に手を入れてみたら温かい!どうやらディスプレイではないようだ。ごつさんは靴を脱いでいそいそと吸い込まれていった。私はこういう時、編み上げの靴の紐をほどいたり結んだりするのがおっくうで・・・大体、徹夜明けで今こんな所でこたつなんぞに入ってしまったら、二度と出てこられなくなるのではないか?という危惧が ・・・

キハ52形のオリジナルモデルであるキハ20形の車内は、運転室後部には座席が片側1ボックス+かぶりつきの車端向き1列、後位右側(すなわち4位側)には便所が設置されかぶりつきの1列がないというレイアウトであったが、2エンジン装備となったキハ52では床下に水タンクを置くスペースがなく、これを3位側の車内に置いたために、後位は両方とも運転室仕切窓がなくなってしまった。当線に所属するキハ52は3両とも便所を撤去しているので、必然的に水タンクも必要なく撤去され、両側ともかぶりつきが楽しめる構造に改造されているが、座席も一緒になくなっており(後位側は最初から一つ分なかったわけだが・・・)ぶち抜きの立席スペースになってしまっているのがちょっと残念。なお、大糸線では全車とも南小谷方が前位となるので、旧水タンクスペースで窓がない3位側(写真手前の部分)は糸魚川方進行左側となる。これでどちらが糸魚川南小谷なのか、また車両の進行方向がわかる。

帰りの車内は我々2人を含めて乗客は合計3人という、これまた正調ローカル線の旅ではある。キハ52 115の車内はロングシートが部分が増えている他の2両に比べオリジナルの扉間6ボックスが残っており、懐かしいローカル線の旅がよりリアルに味わえる。これは前位―南小谷側から元便所・水タンクスペースの後位方を奥に見たところ。また、115は新製時のオリジナルのプレス鋼板を使った側扉を残している唯一の残存車で、ドア部分のリブが上記車内外の写真からでも明瞭に確認できると思う。

返しとなる南小谷発0751の423Dは、先程のDMH17Hの唸りはどこへやら、ほとんどアイドリングで音もなく軽快に勾配を下って行く。平岩―小滝間では、姫川の谷も広くなってきて景色も明るく開けてくる。

根知で本日のもう1運用を担当する首都圏色のキハ52 156の424Dと交換し、定時0846に糸魚川に戻ってきた。2時間半の乗り鉄の旅が終わり、ここからは車に戻り再び沿線へ赴く。駅前の駐車場は3時間停めて600円だった。う〜寒寒・・・

ここで、ちょっと気になったことが一つ。国鉄一般形気動車のジャンパ栓といえば、制御回路引き通しのKE53(写真で灰色の丸い栓受2つ)と、放送回路用のKE66がおなじみの装備だが、大糸線キハ52は数年前に本来1本のKE66(写真で細いホース)が2本に増設された。もともと2心という超単機能のジャンパなので、ちょっとでも引き通したい回路が増えれば増設しなければならないのはわかるのだが、どうせKE53も全部使っているわけではないのだろうし(しかも2個で合計30心もある)、なぜKE66を増設する必要があるのだろうか? 栓受の部分では完全に2本まとまってしまっているし・・・

1番線を、EF81 503牽引のコンテナ列車、梅田発札幌貨タ行き高速貨4097レが通過していった。梅田を深夜0126に出発し、札幌貨タには28時間半をかけて翌朝0605に到着する長い旅である。
EF510が見られるかと期待していたのだが、今回糸魚川では残念ながら見ることができなかった。といっても、朝0600過ぎにはEF81 450番代牽引のカモレ(高速貨4099レ?)が通過しており、希少価値ではEF510以上の450番代・500番代が見られたのはラッキーというべきか。本来ならけたたましい音を立てて走って行くはずのコンテナ列車も、雪が積もっているとほとんど音も吸収されてス〜ッと走って行くのがちょっと不思議な感じ。
しかし、改札から外に出て、チラッとホームの方を振り向いた時、停車していた115がホームを離れて走っていくのが見えた。???確かに、この運用は次の列車、428Dまでは3時間以上の間があるのだが、いちいちホームを離れる必要があるのかな?とちょっと疑問に思ったところ・・・後ほど驚愕の事態が・・・!

撮り鉄第1発目は、どこで狙うか迷った挙げ句、小滝駅北方の鉄橋を渡る定番ポイントとなった。しかし、ここですでにごつさんと私は趣向の違いから、まったく違うアングルからの撮影となる。ごつさんはこの写真で右下、河原の雪が積もっている場所から見上げるように狙ったようである。私はちょっと逆光が気になったのだが、発電所の建物と絡めたかったし、カンカンに照っているわけではないのでそれほどツブレないだろうと、対岸の雪で埋まっている道をラッセルして(2日連続!)登ったところから・・・この場所、定番だけあって途中までは足跡があったのだが、狙いたいアングルの所まではさらに10mほどあって、昨日の高畠跨線橋に続いての靴底突き固め工法で数分かけて切り開き、通過直前にやっと位置に着けたものである。先程根知ですれ違った424Dの返しである425Dが定時で通過。
キハ52 156は1966(昭和41)年帝車製*1キハ52形ラストナンバー。2004(平成16)年12月に大糸線リバイバルカラー第2弾として、1976(昭和51)年に旧来のツートンカラーに代わって採用された朱色5号一色のいわゆる書都圏色に塗り直された。

425Dの返しである426Dは、天気も安定しておりロケハンで結構惹かれたポイントが多かった南小谷側、それもほとんど南小谷に近い辺りで狙うことにした。気になっていたのは、特に山でもないのにカマボコ形のスノーシェッドがあるポイント。線路沿いの道から俯瞰気味に狙えるはずだ。というわけで、ほとんど狙い通りでゲ〜ット!といいつつ、本当はもっとスノーシェッドを背景で活かしたかったのだが・・・
ちなみにこの首都圏色、導入当初はスマートな赤白のツートンカラーから重い色調の赤一色になり、「合理化国鉄」の象徴として利用者やファンからの評判は芳しいものではなかった。私も子供心にあまりいい印象を抱かなかった覚えがあるが、1999年の映画「鉄道員(ぽっぽや)」でJR北海道のキハ40がわざわざこの色に塗り直されスクリーンに登場したように(9年前の映画で、その当時すでに郷愁を誘う設定だったことになる―もっとも単に正確な時代考証の結果というだけかもしれないが)、すでに恩讐を超えてクラシックの領域に入っており、時の流れを感じさせる。
次の撮影ポイントは、一日4回、撮影可能な昼間の時間帯では2回しかない根知の交換。本当は返しをこの近くで一発撮りたかったのだが、そこから併走したのでは間に合いそうにないし、向こうのロケハンもしていないので、早々に先回りすることにしたのである。

しかし、根知は大変なことになっていた。走っている途中から天気は悪くなり、雪が降り出してきた。朝方より北に向かうと天気は悪くなる傾向にあったのだが、さっき晴れ間の下で撮れた小滝も雪が降っている。根知では本格的な降りになってしまい、ご覧の通り。う〜ん、これはこれで雰囲気はあるのだが・・・
しかも、そんなことよりもっと驚いたのは、なぜか糸魚川からの428Dが今日は休みのはずのキハ52 125でやって来たことだった!なんで!? 運用差し替え?昼間に車両交換なんてことがあるのか!?
どうやら、後で聞いたところによると、115壊れたらしい(まさに爆!) なにせ年代物であるから致し方ないが、ひとが乗った瞬間に壊れるっちゅ〜のは、どういうことやねん!失礼な!と憤りたくもなる。しかし、曲がりなりにもホームから自力走行して煉瓦車庫まで戻ったのだから、走れなくなるような致命的な故障ではないらしいが*2
というわけで、通常の運用ではあり得ない、一日に115、125、156の3両を見ることができるという、誠に希有な体験ができたのであった。ただし、115の走りを撮ることはできなくなってしまった。雪景色だと赤白の方がコントラストはいいんで、どちらかというと115の方が良かったのだが・・・

次のチャンスも、先程ロケーションの良さに2人とも惹かれた南小谷寄りで狙うことにした。というわけで、南小谷駅の遠方信号機を横に返しで降りてきた429D。2位式の閉塞方式を採る区間(単線)で、停車場内の場内信号機を冒進しないように停車場の外方に設けられ一つ上位の現示を掲出する遠方信号機は、背板が通常の信号機と異なり四角。この信号機があればその先に駅(信号場)があることがわかる。つまり、この写真では南小谷駅糸魚川方場内信号機の現示はR(停止)である。
115に代わって本線上に姿を現したピンチヒッター125は、JR化以降長らく地域密着カラーである越美北線*3塗色が施されていたが、2006年11月に奇跡の(調子に乗って!?)旧・旧国鉄色に塗り直された。この青白*4塗装は古く鉄道省時代の1935(昭和10)年に内燃気動車標準色に採用されたもので、1959(昭和34)年まで国鉄一般形気動車はこの色に塗られてきたが、同年9月より新たに一般形用としてクリーム4号・朱色4号の赤白ツートン(すなわち115の塗色)が制定されて姿を消した。すなわち、1965(昭和40)年10月製の125は新製時すでに赤白の新塗色だったわけで、一度もこの青白塗装を経ておらず厳密には考証を誤っているわけだが*5、そんな屁理屈は今更・・・というわけで、ここは素直に粋なJR西の計らいに敬意を表したい。あんなJR地域密着色なんかより数兆倍良いに違いないのだから。

今回一番のショット!・・・のはずが、ちょっとピン甘になってしまった上からの連続ショット。ここはいいなあ・・・しかし、このポイントまるで厚木のエンドのように、列車通過時刻の数分前になるとどこからともなく人がゾロゾロと現れて、結構な人数に。ちょっと笑ってしまいました。まあ、天気もいいし皆各地から狙って出張ってきたのだろう。松本ナンバーのレンタカーもかなりの台数を見かけた。

再び返してくる430Dをどこで撮るか・・・平岩の駅を見下ろす雄大な俯瞰が撮れる山の上からのポイントで狙うべく、再び北上したが、午前中にも増して北に進むにつれ雪の降りが激しくなってきた・・・新道のトンネルを抜けて平岩に着いた頃には、吹雪ではないものの音もなく大粒の雪がこんこんと降り積もる事態になっていた。こんな大雪の中にあってランクルは苦もなく山道を上がって行くが、白馬大仏のところまで来たらこの惨状・・・俯瞰ポイントはこのさらに上とのことで、すでに下界は霞んでしまい写真も何もあったものではないので、無念ながら撤退!・・・いや、しかしこの景色ひどいね。

すでに南に下っても雪はおさまりそうにない。それならと、430Dの迎撃は頚城大野でと決めて国道に戻る。今回のドライブはほとんどごつさんの運転で、私は助手席でふんぞり返ってあっち行けこっち行けと指示するだけの極楽ツアー。たまにはこういうのもいいね・・・

もう驚かないが、125の頸城大野発車直後を後打ちで。お〜我ながら、富田勲の「新日本紀行」のテーマが頭の中に流れてきそうなショット・・・これでヘッドライトがブタっ鼻でなければ・・・あと、貫通路にバカデカいワンマン用ミラーが張り出していなければ・・・

ここで、やっと遅い昼食。頚城大野駅に至近の国道148号沿いにある「銭形」にやってきた。う〜飯メシ・・・

銭形は糸魚川市内に2店舗あるとんかつ、フライ、たら鍋などがメインの和風レストランで、とにかく巨大なエビフライが市内外に有名。昔、黒部に良く行っていた頃、国道8号沿いの寺島店には何度も入ったことはあるが、こちら大野店は初めて。巨大エビフリャーはお値段もそれなりに巨大なので、海老と帆立と一口かつのフライ三種セット1350円也をごつさんとお揃いで注文。御飯はお代わり自由なので、マジ原が減っている時は助かるし、ここに寄らないと日本海側に来た気がしないもんな〜。

すっかり落ち着いてしまったが、ラストはもう一度、根知での交換を撮るべく南下。すでに撮影だけで100km以上走っているらしい・・・まあ、南小谷糸魚川間鉄道の営業距離で35kmもあるので当たり前だが・・・しかし、いよいよ雪の降りは激しくなり、光量も極端に落ちて、もうどうやっても止まるわけないので、至近距離で流し!
ここで、本来のラストチャンスである433・434Dは無理と諦めて早めに切り上げ、帰路に着いたが、せっかくここまで来たのだから、帰路は同じ道を通らず、上越経由で帰ろうということになった。ということは・・・あそこに寄ってみますかね。

海沿いの、まるで陰鬱な三浦海岸のような道路を走って筒石の集落でバイパスから降り、裏の山を登って行く。1km足らずだがかなり急な坂を上って行き、ひと気もなくなって来た頃、北陸道の巨大なアーチ橋をくぐった先に、ちょっとした広場とプレハブの小屋があった。そこから長いトンネルを降り・・・

やって来たのは筒石駅

長い斜坑を降りて行くと、ある所で左に直角に曲がり、水平の通路に移行する(帰路の撮影のため、下から見上げたところ)。実はこの先にも斜坑は続いており、以前この日記で紹介した青函トンネル記念館のように、さらに下まで真っ暗闇の斜坑が続いているのだが、そちらは鉄製のスリット状の板で塞がれている。水平の通路はすでに本坑のすぐ上、まるで跨線橋のように上下線の両側に降りて行く階段があり、降り切った先は・・・

このようになっている。驚いたのは、ここにも駅員(委託職員なので正式な駅員ではない)が常駐していたことで、確かに他の駅に比べ保安上の注意事項は多いとはいえ、土合に比べると・・・さすがにそれなりに乗降人員の多い駅だけのことはある。しかし、1時間ヘッドほどの列車密度で、その度に上に上がるとはいえ、ここで一日の勤務の半分位?を過ごすのは・・・ドアを出ればそこは本線上のホームとなる。同じくトンネル駅である北越急行の美佐島と異なり、130km/h運転の681系「はくたか」も通過する駅にもかかわらず、ホームのロックアウトなどの措置は取られていない。もっとも通過列車当該ホームの側は、一応出てはいけないらしいが・・・

筒石は北陸本線頸城トンネルの途中に設けられている地下駅。頸城トンネルの延長は1万1,353m、現在でも国内在来線トンネル延長では第4位の長さを誇る。その昔、物心ついた時からトンネルに異常な興味を示した私は、図鑑でどこにあるかも知れぬ長大トンネルの名前を覚え、思いを馳せた。丹那、六十里越、ゴッタルド、モンスニ、アペニン、青山、正丸・・・まだ国内最長が六甲、世界最長がシンプロンだった頃のことである。そんなわけで頸城という名も、小学校に入る前からおなじみのもので、特に北陸と並んで日本海縦貫線に存在する頸城は、私にとって旅情をかきたてるものであったが、実際に通ることができたのははるか後になって、20代も半ばに差しかかる頃のことである。
現在の在来線最長は言うまでもなく青函トンネル5万3,850m、これは新幹線はおろか世界最長でもあるのだが、陸上の新幹線トンネルの世界は大清水をはじめ岩手、八甲田と次々と世界最長を塗り替える記録が続出、さらに、海の向こうでもゴッタルド基部トンネルなど、まさに異次元の長さのスーパートンネルがこれからも誕生する、まさにトンネルインフレともいえる趨勢であるが、在来線では今後北陸トンネルを超える長大トンネルが誕生する可能性は皆無に等しく、青函は別格として北陸、新清水に次ぐ日本第4位の順位は安泰なようである。いつまでも、そう新幹線が日本海沿いを闊歩する時代になっても、頸城トンネルには健在でいて欲しい。

最初に来たのは当駅1816発の富山行き,JR西金沢総合運転所の475系3連による570M。トンネルというのは掘削断面が大きくなるほど建設費が大きくなる。上下線のホームがずれて設けられているのは、この建設費を抑えるための工夫。

地底で待つこと12分。風向きが変わって、1828発の直江津行き553Mが到着。

そして本日のオーラス、JR東の485系新潟車未リニューアル7連による1057M「北越7号」が120km/hで通過! 今回は対向線路側で撮っていたため、ホームに出ていても無問題。駅員の人は先に地上に上がって行ってしまった。確かに大迫力ではあるけれど、複線断面だし風圧もそれほどでもなかった。
この後、カモレでも来ないかとしばし待ったのだが、駅員の方は貨物のことは何もわからないということで(分割民営化の典型的な弊害)、こちらも貨物時刻表を持参しているわけではないし、恐らく有効時間帯からも大きく外れているはずだし、いつまで待っても仕方ないので、これにて終了!お疲れさまでした!あとは帰るだけ〜!
・・・と、気がついたら大糸線の訪問記だったのに頸城トンネルの記述が相対的に多すぎるような気が(爆)トンネル1個でどんだけ語るっちゅーねんwwww

地上に上がり、ツルンツルンに凍っている急斜面を恐る恐る降り、大雪の妙高高原を(マジですごかった!)越えて、長野から上信越道で軽井沢―関越で東松山圏央道と壮大なルートをたどり、日が変わった頃にごつさん家に戻ってきた。
普段やりつけない撮り鉄だけど、相棒が良かったのかw、非常に楽しめた。CCではなかなか雪の季節には通うのは難しいが、大糸線はロケーションもいいし、もう二度と行くことはないと思うが岩泉線や山田線よりはずっと近いし、春以降も通い詰めたいな〜と。もっとも、本業(何が本業なんだか・・・)との兼ね合いもあるけれど・・・

*1:客車・気動車系メーカーで製作を分担したキハ20やキハ22と異なり、キハ52はほぼ新潟鉄工で製造を独占したが、なぜかラストの3両のみ帝国車輌製となっている

*2:その後復帰したらしいです

*3:大糸線に転属前は越美北線で運用されていたため

*4:国鉄の正式な色呼称では黄かっ色2号と青3号―1956年制定―だが、後の色見本帳には適用車両がなくなったためか掲載がなくなってしまったようである

*5:キハ52で青白塗装を施されたのは昭和33年度第1次債務で製造された1〜14のみ