戦艦ウィスコンシンWisconsinを見る

Battleship Wisconsin BB-64

21日。本日は、夕方1600から"TOMCAT SUNSET "実質初日、オープニングセレモニーが行われるのだが、午前中はダウンタウンに行って戦艦ウィスコンシン見学と、1100よりのノーフォーク軍港めぐりの遊覧船に乗ってこなければならない。
とはいっても、エアショーの時のように0600というような早起きをする必要はなく、昨年最終日しか食べられなかった朝食をゆっくり頂く。昨年文字通り苦い思いをしたとろろも、今年は余裕でスマートにワッフルと化す・・・が、このホテル、甘いものしかないんだよね、ハムとか食いたい・・・

ホテルからダウンタウンへはインターステート64―264経由で20分ほど。昨夜訪れた海洋博物館、ノーティカスの前にあるパーキングに車を停める。ここはまさにウィスコンシン真ん前、16インチ砲が火を噴いたら木っ端微塵になるデンジャラスな場所にある(笑)前のオフィスで仕事をしている人は四六時中気が気ではないだろう。

駐車場は4階?以上が契約になっていて停めることはできないが、エレベータで上がってみると7階からはこのように見える。

昨夜写真を撮った、艦首を回り込むように設けられている遊歩道から。このパース、まさに宇宙戦艦ウィスコンシ〜ン! とでも言いたくなるような素晴らしさ。大和よりも長い270mにもなる全長が、とても戦艦とは思えないプロポーションを見せる。

そのスレンダーぶりは正面からのアングルでいっそう際立つ。第2次大戦までのアメリカ艦艇の宿命として、パナマ運河の閘門通過のための全幅制限のため、全幅は108フィート2インチ=33mに抑えられ、まさに切り裂くような艦首となっている。ちなみに、パナマ運河の各閘門の幅は110フィート=33.53m。同艦の属するアイオワ級が通航すると、左右のマージンはわずか26.5cmしかない*1。艦首はバルバス・バウ。なお、同艦は1956年5月6日、濃霧の中を航海中随伴の駆逐艦イートンEaton DD-510と衝突、艦首をざっくりとえぐり取られるように損傷し、未製のまま終わったアイオワ級6番艦、ケンタッキーKentucky BB-66の艦首を流用して修復されている。

戦艦ウィスコンシンWisconsin BB-64はアメリカ海軍最後の戦艦、アイオワ級の4番艦として1941年1月25日フィラデルフィア海軍工廠で起工された。艦名は前ド級艦であるイリノイ級の3番艦、BB-9に続いて2代目。基準排水量4万5,000t、満載排水量5万7,500t。主機バブコック・アンド・ウィルコックス565psi重油専焼缶8基で最大出力21万2,000馬力・速力33ノットを発揮する、いわゆる高速戦艦である。進水は1943年12月7日、第2次大戦も後半の1944年4月16日に就役、太平洋艦隊に配属されフィリピン、ベトナム硫黄島、沖縄と転戦し終戦を迎える。戦後の急速な復員・軍縮のなかで1948年7月1日退役、ここノーフォークの地でモスボールされていたが、朝鮮戦争に際して1951年3月3日再就役、1958年3月8日再び退役し、レーガン政権におけるジョン・レーマン海軍長官の「600隻艦隊」構想の一環として1988年10月22日三たび就役、湾岸戦争に従事したのち1991年9月30日に3度目の退役を迎え、2002年予備役を解役され、翌年より長らくの住処であるノーフォーク市に寄贈され、一般に展示されている。

ノーフォークダウンタウン、オフィス街のビルをバックにたたずむウィスコンシン。右に見えるのが同艦の管理を行う海洋博物館、ノーティカスで、館内には海軍の歴史を解説するパンプトンローズ・ネイバルミュージアムなども設けられている。ウィスコンシンには館内に一度入り、2階に上がってネイバルミュージアム横の連絡橋から上甲板レベルに渡ることになる。建物とウィスコンシンの間にはなぜかブルーエンジェルス塗装のA-4が飛行状態で柱の先にくくりつけられ展示されている。

KDX-2やサンアントニオなど最新のステルス艦を見た目にはあまりにクラシックなウィスコンシンの檣楼。現用艦では見るべくもない、Mk38・5インチ連装砲や同砲の管制を行うMk37射撃指揮装置、檣トップの16インチ砲管制用Mk38射撃指揮装置などが目を惹く。

艦橋。"Armord conning tower"と呼ばれる厚い装甲を施された司令塔に、パイロットハウスと呼ばれるいわゆる私たち戦後の世代の人間が知っている艦橋の建屋がくっついている形になっている。通常の航海時はこの艦橋で作業を行うが、大和と洋上で雌雄を決するために建造されたこのクラス、ひとたび砲戦となれば17.3インチ=44cmという大銀行の金庫のような分厚いドアで閉ざされた円柱形の司令塔に籠もって繰艦・指揮を行うのである。
この円柱は上の写真にも右端にちょっと見える通り、艦橋の上から船体にまで貫かれている一種のトーチカで、窓といえばスリットのような上下幅10cmもない細長い穴から見えるだけ、1番艦アイオワの就役時には外側の「皮」はなく、露天艦橋であったから、この円柱と三方を見渡す小さなスリットがあるだけの異様な艦容をしていた。食うか食われるかの戦時には不便とか何とかは言っていられないが、平時になってみればこれではあまりに使い勝手が悪いので外側に覆いと窓をつけて、艦橋をエンクローズしたのである。装甲などないに等しい、ペナペナの鉄板を貼り合わせただけの現代の戦闘艦とは根本的に考えが違うわけ。
しかし、これほどの巨艦にもかかわらず、今度は艦橋のスペースとしては写真で床の裏面が見えるだけの細長い部分しかないわけで、非常に狭く難儀するらしい。いずれにしても舵輪や速力通信機はトーチカの中なので、艦橋にいるのは艦長とお付きの兵、航海科のスタッフ数名、司令長官座乗の際は長官と幕僚で、6〜7人ほどと思われるが、中と外の意志疎通は大変だろう。

Mk37射撃指揮装置。上部レーダーがオリジナルのラティス形状のMk4(FD)からパラボロイドのMk25に換装されている。

Mk37で管制されるMk38・38口径5インチ連装砲。砲そのものはMk12と称し、第2次大戦前に開発された米海軍の代表的な小口径砲である。アイオワ級では就役当初は10基・20門を装備していたが、1980年代の最終形態では後述するトマホークランチャー、Mk143(後方に見える)に場所を明け渡したため、前部に向けて写真のように左右各2基ずつ、後部に向けて同1基ずつ、計6基・12門となった。なお、同砲の単装モデルの制式名はMk30といい、フレッチャー級をはじめ数多くの駆逐艦に採用例がある。

戦艦の存在意義である主砲は16インチ=40.6cm50口径のMk7。射程距離は38,720m。砲塔自体の重量は3,000tというから、1基で海自の「はつゆき」型護衛艦と同じ重量ということになる。ドヒー! しかし「大和」型の主砲はさらにこれを凌駕する18インチ=46cmで、まさに戦争が生み出した一つの奇蹟(そして狂気)の具象形である。「大和」型亡き今、陸上砲も含めて現存する最大最強の大砲ということになる。上甲板の床板は現代の戦闘艦では見られないクラシックなチークウッド。この下に1.5インチの装甲が施されている。

16インチ砲管制用のMk38射撃指揮装置。こちらは日本の戦艦と同じような光学式の測距儀と、射撃管制レーダーを組み合わせた方式となっており、下の左右に広がった測距儀がMk48、上部のレーダー形式名はMk13となる。前後部に1基ずつ、計2基設けられているが、前部の物は射程距離を稼ぐため前檣の最上部に設けられている。射撃指揮装置はアナログ式ながら各砲塔用とも極めて信頼性が高く、80年代の再就役にあたっても新形に換装されることはなかった。

対して対空レーダーは最新鋭のものが奢られた。マストのトップに設けられたのは↓のKDX-2などでもおなじみのSPS-49(もちろん、サブモデルで言うと若干古くなるが)。その下に見えるのは近距離水上・低空捜索用のSPS-67。なお、ミサイル艦ではないため3次元対空捜索レーダーは持たない。

第2砲塔。主砲の配置は「大和」型と同じ前に2基、後に1基の計3基・9門であるから、それだけで9,000tに達する。砲塔は射撃指揮装置と連動して全自動で回転し照準に合わせる機構が備わっているが、アイオワ級4隻では装備時期はまちまちで、また初期にはあまり信頼性の高いものではなかったという。ただ、射撃指揮装置が光学式測距儀しかなく、照準にも職人芸が頼りだった日本の戦艦と比べると明らかに一日の長があったことは否めない。それは大和とアイオワもし戦わばという、永遠に決着の付くことのない論争の入り口でもある・・・

16インチ砲弾とその装薬。砲弾の重量は徹甲弾(AP―Armor Piercing弾)の場合2,700ポンド=約1.2t、高性能炸薬弾(HC―High Capacity弾)の場合は1,900ポンド=約860kgとなる。装薬は体育のマットに使うような硬い繊維(資料によると絹だというが・・・)で包まれており、写真のように6袋を1組として使用するが、1袋の重量は110ポンド=約50kgで、持ってみたら渾身の力を込めないと持ち上がらなかった(もちろん、両方とも訓練用のダミーです)。なお、戦艦同士の艦隊洋上決戦が想定されていた第2次大戦期には砲弾はAP弾が使用されたが、後のベトナム戦争などでの洋上砲台として海岸近くの陣地などを攻撃する用法ではHC弾の使用が主となり、徹甲弾を使用する機会はなかった。もちろん、こんな代物を1980年代にゼロから製造するのは無理な話で、砲身から砲弾、炸薬に至るまで予備役保管時代の在庫品を活用しているほか、アイオワ級より1つ前のクラスで同じく保存戦艦であるマサチューセッツアラバマからも提供を受けている。炸薬も長期間の保存で変質が心配されたが、ほとんど劣化はなく全部一度混ぜ合わせて再装填されたという。

各砲塔側面に取り付けられている湾岸戦争時、1991年2月6日に3番艦ミズーリMissouri BB-63と共同でクウェート国境付近において実施した砲撃のスコア。砲塔ごとにターゲットと砲撃数は異なる。

艦首にはこれも80年代の装備であるNTDS(海軍戦術データシステム―いわゆるリンク11)のアンテナが建てられている。艦上には海軍OBの爺様が何名か常駐しており、見学客に対して適宜ガイドを行ってくれるが、大概が日本に派遣された経験を持っていて、「ヨコスカにいた」「サセボにいた」という話題で話しかけてくる。

80年代に三度目の就役を果たしたアイオワ級*2の、最大の武装かつ存在意義ともいえるのが、後部に装備されたBGM-109トマホーク巡航ミサイルの4連装装甲ランチャー、Mk143。
その形状から「コフィン」(棺桶)と称されるMk143は、VLS実用化前に大形ミサイルであるトマホークを収容するために開発された専用のランチャーで、発射時には箱の上半分が仰角をつけて斜め上に持ち上がる(写真左手前のものは尾部から見たところで、中ほどで斜めに入っている筋彫りの部分から上が持ち上がる)。前部檣楼と後部煙突との間に左右直角に各2基ずつ計4基(写真で右に見える)、煙突後部に斜め前を向いて各2基ずつ計4基と、1隻で8基=32発を装備する。
当初は水上打撃力というよりも、戦略兵器的な位置づけが強かったため、トマホークも当時のメインモデルである核弾頭装備形のBGM-109A・TLAM-N(Tomahawk Land Attack Missile-Nuclear)を装備していると言われ、1986年にニュージャージー佐世保に寄港した際には核つきトマホーク入港か?とマスコミをにぎわした。なお、現在ではTLAM-Nは艦隊配備からは引き上げられ、装備はすべて通常弾頭形のBGM-109C・TLAM-C(Conventional)やディスペンサー弾頭のBGM-109D・TLAM-D(dispenser)、同じく通常弾頭の対艦攻撃形BGM-109B・TASM(Tomahawk Anti Ship Missile)となっている。
Mk143はVLSが実用化するまでのつなぎとして開発されたものであり、1982年にスプルーアンス級駆逐艦のメリルMerrill DD-976が前甲板に2基を装備したのを皮切りに、スプルーアンス級の7隻とアイオワ級4隻、原子力ミサイル巡洋艦ロングビーチLong Beach CGN-9に装備されたが、1986年にタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦のバンカーヒルBunker hill CG-52がVLSを装備して就役、同年から翌年にかけてスプルーアンス級のファイフFife DD-991が改造によりVLSを装備*3スプルーアンス級の退役にあたってMk143装備艦は特に優先で退役が進められ、後の建造艦は運用の柔軟性が高いVLSのみとなったため、Mk143は現用で装備する艦はない。
なお、写真中央のクレーン柱の後に、おなじみRGM-84ハープーン対艦ミサイルの4連装キャニスター、Mk141のマウントがちょっと見えるが、キャニスター自体は撤去されている。保存にあたって現用の装備は他の艦に使い回しが効くために取り外されたものと思われ、同様に現用兵器であるMk15バルカン・ファランクスCIWSやOE-82衛星通信アンテナ、SLQ-32(V)電子戦システムなどは姿を消してしまっている。その割にはSPS-49は残っているけど・・・あれも安いもんじゃないから外して使えば良かったのに。

艦橋部右舷側面に取り付けられた、湾岸戦争時のトマホーク発射スコア。

後部3番砲塔。砲身長は50口径なので40.6cm×50=20.3mにも達する。就役時は後部煙突の後ろにもマストがあり、こちらにはSG水上捜索レーダーが高々と掲げられていたが、当然80年代の装備ではないので撤去されてしまっている。手前に見える円柱は排気筒。

ちょっとしたヘリ空母かと思うほど異様に広い後甲板。就役時にはカーチスSCシーホークやヴォート・キングフィッシャーなどの水上機を搭載しており、カタパルトが2基装備されていた。後にはヘリ甲板となり、恒久的な格納庫こそ持たないもののSH-3やSH-60クラスなら4機を余裕で搭載することができる。ヘリ甲板部分はウッドではなく鉄板のデッキとなっており、空母などと同じ滑り止めのコーティングが施されている。手前に見えるスペースは最後部のボフォース40mm4連装対空機銃のマウント部。就役時は全艦で20基がハリネズミのように装備されていた(1番艦アイオワは15基、2番艦ニュージャージーは16基)が、朝鮮戦争後の退役時、1958年にすべて撤去された。

艦の外から見るとこんな感じ。現代の戦闘艦には見られない、優美なクルーザースターンである。海自DDHの倍近い33mの横幅が実感いただけると思う。しかしこれでもアメリカ軍艦の宿命、パナマ運河通航のために無理をして寸法を削っているので、アイオワ級は艦型としてはバランスが悪い設計と言われている*4

艦後部、右舷第3砲塔前にある洋上補給ポスト。いわゆるスラパイと言われる給油艦からの燃料ホースの高さを合わせて吊るスライディングパッド、ホースを渡すハイライン用のデリックが備えられている。

そのちょっと前にある港での外部電源補給ステーション。保守作業などでボイラーを停止し艦内の発電器を回せないとき、またそれ以外でも随時陸上からの電源供給を受けるための電源コードを接続する。

ワードルームと呼ばれる士官食堂。アイオワ級の士官乗組員は65名、兵乗組員は約1,450名で、毎日1.86トンの野菜、1.1トンの肉、およそ6,500個の卵を消費したという。
ウィスコンシンは通常は艦内非公開となっているが、これは海軍と各艦を譲り受けた自治体との取り決めで、有事にはいつでも現役に復帰できるような良好なコンディションを保つことが譲渡の条件となっているためで、艦内は特別の行事やコネがないと入ることはできない。しかし、上甲板のあちこちにある丸窓から中を覗くことは可能で、ガラスは汚れていて撮影は難儀するが、逆に観光客に荒らされていない1991年の(現状では)最終退役時そのままの艦内を見ることができる。

兵員居住区。見えるところはこのようにヤラセっぽくディスプレイされているが、調度は決して作り物ではないリアルなもの。現代の艦艇では潜水艦などを除いてお目にかかれなくなった3段ベッドである。古いし使い勝手も良くないのだろうが、逆に艦自体は駆逐艦などとは比べものにならない広さで、ボイラー艦ゆえいわゆる「ハリウッドシャワー」が使え、何よりも戦艦のステイタスで乗組を志願する兵は多かったらしい。

いかにも一昔前のパソコンらしいモニタが並ぶ事務室?区画。注目して頂きたいのは椅子で、これは私の行きつけのカフェ、シートマニアにあるEMECO社の"NAVY"シリーズ。すげ〜!本物初めて見た! 定番の「1006」とは違い、背もたれの上に1本横棒が入っているけど、何というモデル名なんだろうか。

上級士官、幕僚クラスの居室。

右舷側にある司令長官食堂。アイオワ級は建造当時最大最強の戦艦として、1番艦アイオワテヘラン会談に向かうフランクリン D.ルーズベルト大統領を乗せて大西洋を横断するなど、VIPの座乗も多い艦だった。従って旗艦設備も充実しており、上級幕僚の個室も複数設けられている。
すでにアイオワ級は予備役指定も外れており*5、いわゆるモスボールフリートとしての分類からしても再役は考慮されていないように思えるが、さすがに並はずれた水上打撃力を持つ「世界最後の戦艦」を戦略オプションとして切ることは得策ではないと考えているようで、海軍の思いきりの悪さもわからないではないのだが、すでにアメリカに比肩する軍事力を持つ国も当面はなく、戦艦を有効に使うような局面は中期的にはないと思われる。遠い未来、海軍力でアメリカと対峙する国が現れた時は、すでにこんなクラシックな代物は使い物にならなくなっているに違いない。従って、アイオワ級の4度目(ニュージャージーは5度目)の現役復帰は現実的にはあり得ないというのが大方の見方である。
アイオワ級アメリカの力の象徴として退役後も各地から引っ張りだこで、1番艦アイオワの保存展示は現段階では実現していないが、2番艦ニュージャージーは艦名となったニュージャージー州ミドルタウンで(州名が海に面していて唯一ご当地モノとして展示できる幸せな艦だ)、3番艦ミズーリはハワイ・オアフ島パールハーバーで記念艦として展示されている。

*1:通常の船舶のパナマ運河通航可能な最大幅は32.3m

*2:2番艦のニュージャージーNew Jersey BB-62はベトナム戦争でも現役に復帰しているので実に4度の再就役を繰り返している

*3:バンカーヒル、ファイフとも後に横須賀配備となり日本ではおなじみの艦であった

*4:アメリカ海軍は第2次大戦末期、最新鋭の超大形空母ミッドウェイMidway CVB-41でついにパナマ運河通航を諦めたが、それまでは空母といえども通航可能なサイズに設計され、こんなことを考慮する必要のない日本海軍に対して大きなハンデとなっていた

*5:アイオワウィスコンシンは2006年3月17日に公式に除籍